9月25日(木)
旧昭和学院の創立四十周年記念史には、卒業生の名簿が記載されている。八九年の時点で千五百人あまりが朝川の元を巣立っていった。医学士、工学士、文理学士などがずらりと並ぶ。山下譲二ブラジル日本文化協会元専任理事、鈴木威文協元理事といった名も。
公私共に朝川を支えたのは、妻、さき(故人)だった。さきは女子師範学校を卒業、日本で教職の仕事をしたことがあるという。この経験が学校経営に役に立った。
何をするについても一歩下がって夫を立て、裏方の仕事を黙々とこなした。福本千賀人さん(六九、第一期生)は「思いやりがあって、先生を上手にリードしていた」と内助の功を称える。
昭和学院の閉校が間近に迫っていたころ、国井精さん(聖西日本語教育連合会相談役、六六)を自宅に呼び、歳暮を渡して言った。
「朝川がここまでこれたのは、小沢さんや国井さんが、一方的になりがちな主人にブレーキをかけてこられたからです。いろいろとご迷惑をかけました。これは些細なものですが感謝の気持ちです。物ではなく、私の心を受け取ってください」。
さきは、朝川一人が日学連や聖西地区を盛り上げてきたのではないということをちゃんと見抜いていた。夫が日本語教育から身を引くことを知って、関係者たちに礼をしたのだった。
「付き合いはほとんど無かったけど、義理堅さに感激した」と国井さんは話す。
学校を閉めるとほぼ同じくして、さきは脳卒中で倒れ、寝たきりに。その後、自宅で静養するが、九五年十一月六日、帰らぬ人になった。
愛情表現が苦手だった朝川は、本人を前に謝意を述べることは無かった。が、もちろん、心の中では感謝していた。
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一人息子のテルノリ(故人)は幼い頃から、家庭の中で男性優位の関係を見せつけられてきた。そのため、父親に対して、必ずしも好意を持っていなかったという。
昭和学院や日学連の各種行事をよく、手伝った。それは、母、さきの負担を少しでも軽減させたいとの心配りがあったからだ。朝川がESPを始めると、見知らぬ人が自宅を訪れるようになり、不信感は強くなっていった。
しかし、さきが死去、朝川が一人残されると、父を憐れと思い、毎日、実家に通い、何やかんやと世話を焼いた。そのうち、ESPの〃仕事〃にも理解を示した。
父子が長年の確執を乗り越え、手を取り合っていこうとした時、悲劇が起こった。二〇〇〇年六月十六日夜、テルノリは父の家から帰宅の途に就くため、自家用車で門を出ようとしたところ、銃で武装した三人組の強盗に襲われたのだ。
一味の目的は自動車だったとされる。テルノリが悲鳴を上げたため、犯人が射殺。何もとらずに逃走した。
「お父さん――」。朝川は室内で息子が助けを求める声を微かに聞いた。しかし、気付いた時はもう手遅れだった。福本さん宅に第一報を入れた。かなり取り乱しており、電話を受けた人は内容がはっきり聞き取れなかったという。
朝川は事件後、「こんなことって、ありますか」と繰り返しては塞ぎ込んだ。周囲の人は慰めの言葉を見つけられなかった。一部敬称略。
(つづく、古杉征己記者)
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