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朝川甚三郎不運の半生―8―息子の死後、言動に異常―嫁はひっそり別離

9月26日(金)

 「誰かに狙われている」。
 テルノリの死後間もなく、朝川の言動に異常が目立つようになってきた。一人息子を失ったショックがあまりにも大きすぎたのだ。
 介護に当たったのは嫁のきよ子だった。が、自身、子供二人を抱えて生活していかなければならず、舅の世話と子育て、仕事を両立させるのは不可能に近かった。
 もともと子供の教育方針をめぐって、朝川と衝突しており、二人の関係は悪くなるばかりだったという。介護疲れで、きよ子もノイローゼになってしまう。
 朝川は足を骨折して入院、歩行が困難になったのを機に、老人ホームに入所することを決意。最寄の施設に身を寄せた。その後、二〇〇一年十二月にサントス厚生ホーム(斎藤伸一ホーム長)に移った。
 厚生ホームへの入所について、聖西地区の教師たちに告げなかった。「数カ月経って、サントスにいるという知らせを受けて驚いた」と国井精さん(聖西日本語教育連合会相談役、六六)たちは興奮気味に話す。
 財産の管理はすべて、嫁に任せていた。入居費は毎月、全額、支払われた。きよ子はちょくちょく老人ホームを訪れて、子供を祖父に会わせていた。しかし、朝川の四十九日の法要が終わると、「そっとしてほしい」と言い残して姿を消してしまう。
 一周忌の法要が営まれなかった背景には、喪主のきよ子の連絡先が分からなかったという事情があったのだ。朝川の姪、山口(旧姓及川)フサエさん(七四)は「おじの死後、きよ子さんとは没交渉になっている」と声を落とす。
     ◆
 「とてもおとなしい感じの人だと思った」とは斎藤ホーム長が朝川と会ったときの初印象だ。
 きよ子のおばで厚生ホームに入居中の三上治子さん(八〇、宮城県出身)は「表情を見たら、これまでの人生にずいぶん悲しいことがあったんだ」と直感した。
 若い頃からやせ型の体型だったが、米寿を迎えたこの時期はがりがりだったという。息子の事件で心身ともに披露困憊。尾羽を打ち枯らした姿だった。怯えた様子で、冒頭の言葉を繰り返した。
 二階の二人部屋があてがわれた。二人分の入居費を支払って個室として利用した。個人の持物は少なかったが、日本語の教科書類は大事にしていた。
 両隣を三上さんと双葉学園創立者(現サウーデ日語学校)で旧日学連の創立メンバーでもある安藤富士枝さん(九二、岐阜県出身)に挟まれる形となった。二人は歩行訓練などをはじめ、日常生活をサポート。「気の置けない二人がいるから、もう安心だ」と朝川は愁眉を開いた。
 屋上で体操をするのを日課にしていた。そこからは、六十五年ほど前、海外雄飛の志を持って降り立ったサントス十四番埠頭が見下ろせた。
 厚生ホームの入所者のうち、約七割は朝川と同じ戦前移民。耳の遠い高齢者が多いため、会話は困難だが、ほかの入所者と共感出来るものがあったようだ。病院で臨終を迎える直前まで、「厚生ホームに帰りたい」と看護婦や見舞い客に話していたという。一部敬称略。
 (つづく、古杉征己記者)

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