10月3日(金)
中尾副會長、モヂ評議員 會長迫田己代治氏と懇談 書記として安立仙一君を 採用―。
(当時、文協が発行していた機関紙、『會報』第六號〔一九五七年五、六月〕の日本移民五十年祭委員会の会務報告から)
「本当は新聞記者になりたかった」という安立さん。友人の紹介で文協に就職したのは、来伯間もない二十六歳の時だった。
日本の服を捨てて、ブラ ジル製のものを着なさい
文協の草創期――。安立さんは、当時の事務局長であった藤井卓治氏の厳しい言葉を思い返しながら「そんな時代でした」と回顧する。
戦後、移民の定住化が進み、〃硫黄〃と形容された日系社会が急速に溶解を始め、シネ・ニテロイ周辺に日本語の看板のない日系商店や食堂が並び始めていた。文協事務局はプラッサ・ダ・リベルダーデ九十番六階にあった。
当時、三コント七百の給料を貰い、二コント九百のペンソン代を払っていた安立さん。よく通ったガルボン・ブエノ(当時は並木通りだった)の朝日食堂で「よく半田知雄さんや、若き日系画家たちの芸術論議を見ていた」頃のことだ。
一九五五年、サンパウロ日本文化協会(六八年ブラジル文化協会に改名)は創立された。同文協が日本文化の紹介、宣伝、また一世を中心とした文化啓蒙活動である一方、二世を中心とした団体がすでに存在していた。
〃日本人〃でなく、〃ブラジル人〃としての意識変革をその存立目的に置いた、一九五○年創立のピラチニンガ文化体育協会だ。文学界に日系人の活躍が少ないことから、日本の小説などをポ語訳し、機関紙『ピラチニンガ』に掲載するなどの活動も行なっていた。
翁長英雄、植木茂彬、大竹ルイなどのメンバーの中に半世紀後、文協改革の核となる人物がいた。当時サンパウロ大学の学生であった渡部和夫(副会長)である。
文化センター建設構想を推進していたサンパウロ文協に並行して、ピラチニンガ文協にも会館建設計画があったため、両団体幹部たちは六〇年六月に会合を開いた。
経済的、将来的にも、建設事業を一本化したいという山本たちの思惑に反し、ピ文協側は、両会の第一の存立目的が根本から異なっていることを理由に、この案には賛同しなかった。
一九六四年に発行された日本文化センター落成記念特別号(『コロニア』別巻)の「日本文化センターのできるまで」のなかで安立さんは、「ピ文協側から柳沼会長、渡部副会長(中略)らが出席」と報告しているが、渡部氏の出席はあり得ない。なぜなら、五九年の大学卒業時には、ピ文協を後にしているからだ。
渡部氏は同文協と袂を分かった理由を、「二世だけが会員であるような体質が是か非かという議論が持ち上がり、二派に分かれたが、双方に対し、活動の目的意識の希薄さを感じていたから」と説明する。
ピラチニンガ文協から距離を置いた渡部氏は判事を務める傍ら、独自の日系社会観、日系人論を考え、七○年代から世に問い始めていた。
ピラチニンガでの教訓もさることながら、戦前日本人の代表的集団移住地であったバストスで幼少期を過ごした渡部氏。臣道聯盟の最初の犠牲者となった溝部幾太。その息子と同級生でもあった同氏の生い立ちが、その思索活動の根本にあるのだろう。
ブラジル社会の多種多様 な成員について、個々に あの人はどこどこのコロ ニアの人間であるといっ た考え方は大きな誤りで す。それはあたかもブラ ジルという大きな社会の 中に、これとは全く異な った小社会が実在するか のような印象をあたえる からですー。
(『ラテン・アメリカとの対話―文化交流をめぐって』国際交流基金出版・七九年、六四頁から抜粋)
(堀江剛史記者)
■日系人とは何か=安立仙一、渡部和夫 半世紀の交錯(1)=文協創立時の役目終え=次の50年のあり方模索
■日系人とは何か=安立仙一、渡部和夫 半世紀の交錯(2)=渡部氏=文協とピラチニンガ=独自の論で両方に距離