10月9日(木)
【ヴェンセール誌】二〇〇三年の失業率は月々エスカレートして歯止めがかからない。一方、解雇の洗礼を受け、就職難を克服した人たちを追ってみた。組織の壁に寄りかかって生きるのも人生だが、自分の足で歩くことを心掛けていれば、失業という化け物に脅かされることはないと異口同音にいう。
勤続保証のある公務員を別として再就職を遂げた幸運児らは、一様に遅かれ早かれ自分の番が来ることは察していたという。その日のために、第二の人生プランを練っていたと語る。水平思考が苦手の人もあり、参謀として能力を発揮する人もある。一様にはいかないが、こんな例もある。
エディヴァウド・F・シウヴァ氏(三六)はマッケンジー大学の経済学科を卒業し、バンコ・ド・ポーヴォの小口与信課長として百二十人の部下を率いていた。仕事は零細企業の経営指導だ。末端企業と経済市場の関係は、熟知していた。
毎日十四時間にわたる勤務時間に疑問を抱いていた。上司にある日、能率向上による勤務時間縮小を提案した。上司は不快な表情を見せたことで、真意が伝わらず誤解されたと悟った。
同氏が予想したことは三カ月もしないうちに起きた。後任が来て、同氏は解雇された。しかし、それほど驚かなかった。多数の履歴書を関係企業に送り、知識不足と思われる分野の講座を受けていた。
呼び出しを受けて筆記試験が済むと、三社から面接の通知が来た。採用決定になるまで六カ月が経過したが、その間の時間は有効に使い、イライラすることはなかったという。新職場も経営指導の仕事で前社より小規模だが、土日には家族と散歩ができるし、給与も同水準を保てた。
アデウモ・L・リーマ氏(四二)はエリート・タイプではないが、中企業の会計課職員として十八年間勤務しリストラされた。会社にリストラ旋風が何回かに分けて始まったとき、自分の番も遠くはないと感じた。同氏は幼少時代、母親の内職を手伝ってオツマミ作りの経験があった。
会社を解雇されたら、少年時代に戻ってオツマミで生計を立てる決心をしていた。母親はスナックに配達していたが、同氏は卸と小売、さらに一坪店舗のチェーンを計画していた。
一坪店舗は一号店だけ、少し資金がかかった。二号店からは卸売の売上金も入り、資金が回転したため容易であった。自宅は昼間はオツマミ工場、夜は寝室に早変わりする。収入も半年後に安定し、サラリーマン時代に倍増した。
クラウジア・S・ファラシェさん(三九)は人材派遣企業に長年、勤務したが結婚して出産した。出産休暇が終わって復職すると幹部職員ではあったが、まさかの解雇をされた。彼女は人材のスカウトや売り込みのキャリアを生かして、独立を決意した。
心理学を専攻したので、在職中に人材育成講座と求められる人材分野の研究に努めた。温めてきたアイデアの実現と育児を同時に行える企業が夢だった。スタッフも四人採用。二年目に事業を拡張して人材コンサルタントも始めた。