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移民のふるさと巡り=3千キロの旅=3=こども劇で移住地の歴史紹介―共栄、穀物を不耕起栽培

10月10日(金)

 昨夜来の雨も止んで、朝食を済ませた団員たちは、三々五々ホテルの近くを散策。緑も多く都会に見られる喧騒もない。町の郊外には穀物を収納するカントリーエレベーターの高い塔が方々に建っている。
 バスは他のホテルに泊まったバスと一緒になり、四十五分ほどで共栄移住地に着いた。会館の入口には立派な野球場。そしてその奥の一九八四年に建設された会館で、移住地の人たちが「移民のふるさと巡り」の一行を出迎えてくれた。
 共栄移住地の歴史は、一九五三年に始まる。翌年、松原植民地の奥に入植する予定であった北海道出身の家族などが、ブラジル人の土地を購入し自営の道をあゆむ。その後、五五年にはパラナ、サンパウロ州より四家族、五六年には北海道から六家族が入植した。現在、共栄移住地を構成しているのは二十五家族百十七人で、その出身地は北海道十五、和歌山三、広島五、香川一、鳥取一家族となっている。当時の入植者はほとんどが北海道出身者で占められており、その団結力は他に例を見ないほどであり〃共に栄える〃という意味から共栄移住地と呼ばれるようになったと聞く。
 土地は平坦でコーヒーが見渡す限り植えられたが、七五年七月の大霜害は、植民地全体を揺るがした。その後、コーヒー樹は抜根され、機械化による大豆、トウモロコシ栽培などが主体となっている。それも現在は不耕起栽培が主流だ。
 会館には日本語学校が併設されており、この移住地から国費留学一、県費留学・技術研修十二、農友会北米実習二、JICA技術研修七、同日本語生徒研修六人を出している。現在、日本語学校の生徒は十六人。城田志津子先生を中心に和気あいあいの学校教育が行われているようで、これが後で一行を驚かせることになる。
 バス三台の一行と移住地の人たちで一杯になった会館では、日本人会会長、副会長が所要で不在のため、会計の住岡要氏が一行歓迎の挨拶を述べ、高橋団長が、ふるさと巡りと県連の事業を説明した。
 会館の裏側には見渡すかぎりの畑が広がっており、トウモロコシを収穫した後、大豆が植えられるのか、昨夜の雨で湿った黒土に白いトウモロコシの残滓がある。不耕起栽培で表土を保護しているためである。
 会館では、移住地の子どもたちによる歌や太鼓演奏などがあり、その後で十日ほど練習したという「共栄移住地五十年のあゆみ」という演劇が行われた。子どもたちの劇は、少々とちるところもあったが真剣で、会場の笑いや涙を誘い、団員一行は感激にふるえた。
 歓迎昼食会の場所を作るため外に出て話を聞くと、日本人会の主な行事は、新年会、入植祭、釣り大会、シュラスコ会、野球、ソフトボール大会、ゲートボール大会、忘年会などが行われており、立派な野球場のほか、ゲートボールのコートも整備されていた。
 歓迎昼食会で、母の会の心のこもった昼食に舌づつみを打っていると「これは皆さんに食べていただこうと、釣ってきたドラードの刺し身です」と、骨が多いため小さく切られたドラードの刺し身が出された。サンパウロではドラードの刺し身などにお目にかかることもないので、脂が乗ってうまい、うまいと、刺し身談義と釣りの話に会場の一角は盛り上がった。
 時間が来て別れの時となった。会場内に入り、子どもたちの劇を指導した城田先生と子どもたちに拍手、ふるさと巡りの「ふるさと」を皆で合唱した。次の目的地はセーラ・ダ・ボトケナ国立公園のボニート。つづく。(伊東信比古さん通信)