10月14日(火)
ボニートから二百七十七キロ、出発が少し遅れたため、カンポ・グランデに着くと、そのままカンポ・グランデ日伯文化体育協会会館の歓迎夕食会に向かう。三台のバスから降りて、会場に入る。
カンポ・グランデは、南マット・グロッソ州の州都で人口七十万。海抜五百三十二メートル。サンパウロからの距離は千十四キロ。マット・グロッソ州が二つに分割された時、州都となった。十九世紀後半は鉱物を産出する小さな町だった。一四年に鉄道がサンパウロ州から開通し、人口が増加した。日系の入植は、この鉄道工事に従事した人たちが、沿線に住み着いて始まったといわれる。一〇年、移民としてペルーに入った沖縄県人数名がアンデスを越え、マット・グロッソ州の鉄道工事の話を聞き、その工事に従事した、ということだ。
沖縄県人の子弟が多い。九月三日、サンパウロ市の文協で行われた京都大学名誉教授・医学博士家森幸男氏の講演「日本の食文化と長寿の秘訣」でも、沖縄、ハワイの沖縄県人、そしてブラジルのカンポ・グランデに住む沖縄県人が、比較対照されたくらいである。
会の活動は多岐にわたっており盆踊り、カラオケ大会、野球・ソフトボール、カラテ、囲碁大会、もちろんゲートボールなども盛んなようだ。会の新聞「TOMODACHI」を二ヵ月に一度発行しており、六年目に入っている。新聞はカラーで会の催しや誕生日などを載せた立派なもの、会の活動が盛んなことが分かる。
「移民のふるさと巡り」の団員は多かったが、沖縄出身者は二人と少なかった。和気あいあいのうちに歓迎会が始まった。
壇上にカンポ・グランデ日伯文化体育協会の木下パウロ・ツヨシ会長、南マット・グロッソ州の大坪アキラ州議、「移民のふるさと巡り」団長の高橋一水県連副会長らが上がり、大坪州議が一行歓迎のことば、続いて木下会長がカンポ・グランデの日系人の様子や文協の活動などを説明、高橋団長がふるさと巡りやフェスティバル・ド・ジャポンなど県連の活動について述べるとともに「忙しい中を多くの方に出席していただき、特に婦人部の方々に感謝したい」とお礼。
乾杯の後、各テーブルにはカンポ・グランデのフェイラで名物になってブラジル人も好んで食べるという「沖縄ソバ」が振る舞われた。婦人部が心を込めて作った料理の数々が並んだ。会場では地元、一行双方がカラオケの共演、テーブルではサンパウロやこの地方の話がはずみ、時の経つのも忘れた。
長旅とホテルにまだ入っていなかったため、最後に「ふるさと」を全員で合唱し、ホテルに向かった。つづく。(伊東信比古さん通信)