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移民のふるさと巡り=3千キロの旅移=6=養鶏、柑橘を組合わせーバルゼア〝欠かせない〟移住地に

10月15日(水)

 カンポ・グランデの朝は爽快。多くの団員が一度にカフェ・ダ・マニャン(朝食)に集まるため、どこのホテルでも少し混雑するが、早く終わった人は付近を散策する。
 バルゼア・アレグレ移住地への街道は、牧場や植えつけ前の畑が広がる。一時間程で着く。日本人会館に行く前に同移住地内にある小野田農場への道を辿る。アスファルト道から土道を二キロほど入ったところに農場の本部がある。
 管理人の佐藤晋平氏らが出迎えてくれた。日陰の軒先に肉を取られた四本の牛の足がぶら下がっている。今回、一行が訪れることを知った小野田農場が用意してくれたもので、肉は文協の歓迎会場でシュラスコで振る舞われるようになっている。
 七四年三月、三十年間にわたる〃臨戦〃を終え、フィリピンのルバング島から祖国に帰国した小野田寛郎氏は、七五年四月渡伯。同年五月、バルゼア・アレグレに入植。約五百ヘクタールの土地を求めて牧場造成を始めた。最初からプレジデンテ・プルデンテのネローレ種(牛)牧畜で有名な吉雄弘氏の指導を受け、隣接地などを購入、造成し、現在では千二百ヘクタールの土地に千八百頭を飼育している。
 小野田氏は、現在日本滞在中とのことだったが、本部から五百メートル程離れた住宅まで多くの人が歩いて行き、「移民のふるさと巡り」一行としてサイン、農場訪問を記録した。
 バルゼア・アレグレ移住地は、カンポ・グランデ市より西南に約五十キロ、移住地の面積は約三万六千ヘクタール強で標高二百五十~三百十メートル。七四年、移住地の東西を縦断する国道が開通して便利となった。
 移住地は五七年、主に日本人自営農移住者の受入地として、ジャミックが購入造成し、五九年から入植を開始、六一年まで五十七家族が入植した。入植当初は、バナナおよび米を中心とした営農が指導されたが、その後、養鶏、さらに柑橘類を組み合わせた複合経営に移行。カンポ・グランデ市への食糧供給に欠かせない移住地となった。
 移住地には経済活動を行うバルゼア・アレグレ産業組合(金崎英司理事長)と、文化体育活動を行うバルゼア・アレグレ日伯文化体育協会(坂井正義会長)がある。産業組合は六二年正式組合として出発。一戸当たり五百羽(二十四戸)、一万二千羽の出発であったが、現在成鶏六十万羽、中雛十二万羽、初生雛四万を飼育し、月に百六万ダースをカンポ・グランデを中心に販売、今年六月に中央選卵場を竣工し、精洗卵、規格統一に努力している。
 一行は、中央選卵場の、精洗され箱詰めされる工程を見学し、すぐ前にある会館で地元の人たちの出迎えを受ける。山口県出身者が多く入植しており、今回の旅にはブラジル老人クラブ連合会会長の重岡康人さん夫妻や林大三郎氏ら山口県出身者が同行していたので歓迎された。
 昼食会は坂井会長の歓迎あいさつ、移住地の概要などを説明。高橋団長が答礼、会食に移った。
 小野田農場が出してくれた肉がシュラスコにされテーブルの回りを巡る。暑くなったこともあるが、ビールなどの消費も多いようだ。平均年齢七十歳を超えようというこの旅の団員の食欲と元気さには驚かされる。あちこちで話の輪ができ、婦人会(江崎香代会長)の作った心のこもった料理とシュラスコにしたづつみをうっている内に、出発の時間がきた。次の宿泊地リンスまで六百二十五キロあることもあり、移住地の人たちに別れを告げて出発する。
 バスはトレス・ラゴアスへ。セラード地帯のこの街道はアスファルト化されているがそう速くは走れず、途中一回の休憩を挟んでサンパウロ州との州境の同市に着いたのは七時半過ぎ、夕食をするために寄ったホテルを出、リンス到着は翌日の午前二時だった。つづく。(伊東信比古さん通信)