11月4日(火)
一九四七年にサンパウロ州アダマンチーナ市に生まれたネルソンさんは、日系二世のクラブでつくる「二世連合会リーグ」に所属した「トウキョウ」で活躍。初の外国籍選手としてヤンマーディーゼル(現セレッソ大阪)でプレーした。日本サッカー史上最高のFWと言われる釜本氏にも多大な影響を与え、そのコンビでヤンマーと日本代表を支えた。二〇〇〇年からは、セレッソでスカウトを務めていた。七〇年には帰化し、吉村大志郎を名乗った。
写真②=1日午後に西本願寺で行われたミサ
サッカー日本リーグの外国人選手第一号として渡日し、帰化後には日本代表としても活躍した日系二世、ネルソン吉村さん(五六)が一日午後零時五五分(日本時間)、脳出血の急死した。所属したヤンマーと日本代表で釜本邦茂氏と「黄金コンビ」を築き上げたネルソンさんは、ブラジル仕込みの技術で数多くのファンを魅了。低迷期の日本サッカー界を支えただけでなく、数多くのブラジル人選手を招く原点ともなった。今年十二月には、約十年ぶりの里帰りを計画していたというネルソンさん。一日にサンパウロ市内で行われたミサで八十九歳の父、則義さんは「何でワシより先に逝きよるのか……」と最愛の長男の早過ぎる死に力を落とした。サッカーで日伯を結んだ男の死に、日伯両国が涙した。
約一カ月前から体調を崩し、検査入院していたネルソンさんは、一日朝のリハビリ後、眠りについたまま再び目を開けることはなかったという。妻の多恵子さんはニッケイ新聞社の取材に対し「十二月に約十年ぶりの里帰りを計画していたのに、こんなことになるなんて」と語った。
一方、サンパウロ市内の実家には一日早朝、多恵子さんから電話連絡が入った。同日午後三時からシャッカラ・イングレーザ区の浄土真宗西本願寺で行われたミサには則義さんや親族、友人ら約四十人が参列した。則義さんは杖を手に「今日は、ワシのネルソンのために皆様ありがとうございます」と気丈に挨拶すると、参加者から啜り泣きが聞こえた。
ミサ中は、口を真一文字に結び、悲しみをこらえた則義さんも、ミサが終わって親族から慰めを受けると「逝ってしまいよって、どうしようもないのう」と涙ながらに溜息。十二月に里帰りする予定だった息子との再会は叶わなかった。
また、トウキョウ時代のチームメイトだったマリオ・イサオさんら二世の友人は「あいつが日本サッカーのピオネイロ(開拓者)だったんだ」と亡き友の死を悼んだ。
また、昨年のW杯期間中に日本に特派員として派遣され、ネルソンさんを一面で大きく紹介したフォーリャ・デ・サンパウロ紙のロドリゴ・ブエノ記者は、ニッケイ新聞の取材で初めてネルソンさんの死を知った。「嘘だろ。どうしてなんだ……」と絶句。「昨年会ったときにはあんなに元気だったのに」と言葉少なげに語った。
日本サッカー界の恩人の一人の死は、日本にも大きな衝撃を与えた。
三日に兵庫県尼崎市内で行われた告別式にはサッカー関係者ら約六百人が参列し、最後の別れを告げた。釜本氏は「あまりにもあっけない。本当に特別な関係だった」とコメント。また、サンケイ新聞W杯取材班でネルソンさんを取材した佐々木正明記者は「ネルソンは『日本に渡ってきて祖国の優勝が見られる日が来るなんて、生きていてよかった』とはしゃいでいたのに」とブラジルの優勝に大喜びする姿が脳裏に焼き付いていると振り返った。
ヤンマーの遠征で札幌にやって来たネルソンさんら日系人選手の足技を見て、ブラジルに目を向けるきっかけとなった柴田勗札幌大学名誉教授は、「ここ数年体調が悪いとは聞いていたが、まさか亡くなるとは。彼はサッカーだけでなく、人間性も最高だった」とその人柄を惜しんだ。
生まれ故郷を離れ、父の祖国で人生の幕を下ろしたネルソンさん。ミサ終了後の一瞬のにわか雨は、祖国ブラジルの涙雨だった。