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サンパウロ市走った電車懐かしむ=最初はロバが牽引=サンパウロ交通博物館 72年からの歴史展示

11月15日(土)

 【フォーリャ・デ・サンパウロ紙11日】サンパウロ交通博物館の中に、今では見られなくなったボンデ(路面電車)が展示されている。そのボンデの中で写真を撮影するために入った男性の顔から、思わず笑みがこぼれた―。今回のフォーリャ紙特別企画「わたしはあの時あの場所にいた―サンパウロ市制450周年記念特集」は、33年間にわたってボンデの運転手として活躍したアベリーアス・ロドリーゲス・ダ・シウヴァさん(89)を取材した。

 サンパウロ市では、1872年にボンデが登場した。当時のボンデはサンパウロ鉄道会社がアメリカから輸入したもので、ボンデがロバに引かれて運行するタイプだった。
 その頃、ボンデという言葉はなく、「鉄道駅馬車」と呼ばれていた。ボンデという名称は、英語の「ボンド(Bond)」から来る。意味は「券面、債券、証券」など。お金の代わりに交通券のように使っていたボンドが、ボンデの語源となった。
 シウヴァさんは、後に電力会社エレトロパウロになったライト社の元社員で、同社のボンデを1935年から1968年まで運転していた。交通手段として有能なボンデは、市民から愛されていた。
 「乗用車の運転者までボンデが好きだったよ。当時はアスファルトではなく石が敷いてあったので、タイヤはいつもぼろぼろになった。そこでボンデの線路の上を運転してタイヤが傷つかないようにしてたんだ」と、シウヴァさん。「タイヤのゴムが線路にこびりついて、上り坂ではスリップすることもよくあった。いつも砂を入れたバケツを持ち歩き、滑る場所にかけていた」と思い起こす。
 市民にとってボンデは安い交通手段だった。政府はライト社に料金調整をすることを禁じ、同社のボンデ代は30年間も同じ値段となった。1947年、市立交通手段公社(CMTC)が創設され、ボンデと市の交通手段を運営するようになってから、初めて料金が調整された。「市民は怒り狂った。数多くのボンデが路上で火をつけられ、警察と市民の衝突もあった」とシウヴァさんは語る。
 サンパウロ市が過度な都市化を遂げるとともに、線路の上を運行する交通手段は、市民にとって不必要となっていき、早くて線路に頼らないバスがボンデと客とり競争をするようになった。
 その結果、20世紀半ばから、ボンデ路線は徐々に廃線となり、代わりにバスが旧ボンデ路線を運行していった。
 60年代のサンパウロ市の都市化・工業化についていけなかったボンデは、交通渋滞の原因だと指摘され、過去の遺物とみなされた。
 そして1968年、ファリア・リーマ元市長が、唯一残っていたヴィラ・マリアーナ区生物研究所―サント・アマーロ区間のボンデ路線を廃止することを決定。同年3月27日、ボンデ12台が最後の市内運行を実施した。
 ボンデ1543号には、市長とアブレウ・ソドレー元サンパウロ州知事が乗り、数千人に及ぶ人々がボンデとの別れを惜しんでいた。「あの式典を間近で見た時は胸が痛んだ。多くの人々が泣いていた。特にお年寄りは心から嘆いていた。ボンデにとってなんと不公平な仕打ちだったろう」。

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