12月3日(水)
ブラジル、アルゼンチン、パラグアイそして、ウルグアイから成り立つ南米共同市場メルコスル。その名前は知っていても、事務局がウルグアイの首都モンテビデオ市にあることまでは意外と知られていない。
南米各国から構成されるメルコスル同様、「多国籍」な家族構成を持つのが、ウルグアイ日系社会の特徴の一つだ。パラグアイやブラジルからの「再移住」を重ねてきた結果だといえる。日本を初め、南米三カ国の国籍が同居する福原金司さん一家はその典型例だ。
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大分県でお茶店を営んでいた福原さん一家は一九五七年に父、金一さん(故人)ら一家五人でパラグアイのエンカルナシオン移住地に移り住んだ。
「当時まだ十六歳。深く考えずに移民できたが、一攫千金を夢見ていました」と福原さんは当時を振り返る。結核を患う母を一人残しての南米移住。それだけに、成功したいという思いは誰よりも強かった。
「五十ヘクタールの広大な畑」「伐採した木はすぐに売れる」――。しかし、日本で聞かされていた好条件は、エンカルナシオンにはなかった。
「農業経験もない上に、言葉も分からない。正直、しまった、と焦りました」と福原さん。
半年ばかりで、エンカルナシオンに見切りを付け、ブラジルとの国境沿いの町、ペドロ・ファン・カバリェイロに移り住む。
アメリカ人が経営するカフェ園の管理人が、次なる仕事だった。
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当初はよかったカフェ園での仕事も経営不振から、次第に食べるのがやっとの状態へ。状況を打開しようと、福原さんは五九年に単身でアスンシオンに渡る。
知人の紹介でブラジル人が経営するアイスクリーム会社「キ・ボン」で住み込みのアルバイトとして働き始めた。「ここなら食べていけそうなので、親父らを呼ぶことにしたんです」と福原さん。
当初は、一家揃ってアイスクリームを製造、販売していたが、やがて金一さんは小さな八百屋を開き、アスンシオンで根を下ろしていく。また、現在まで福原さんを支えてきたパラグアイ生まれの二世、悦子さんと出会ったのもこの町だ。
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エンカルナシオンに入植以来、各地で奮闘を続けてきた福原家が、「背水の陣」の覚悟で選んだのが、ウルグアイだった。
「内陸国はダメだ。海のある国に行くぞっ」。
アスンシオンで暮らしていた六四年、金一さんは一家揃ってウルグアイへの再移住を決断する。
福原さんら子供にとっては思いがけない提案だったが、金一さんの頭の中には一つの方程式が成り立っていた。
〈ウルグアイ×努力=成功〉
金一さんにとってモンテビデオは未知なる地ではなかった。パラグアイにやって来た移民船が、一日だけモンテビデオ港に寄港。金一さんは、当時成功していた日系農家の招待を受け、彼らの成功ぶりを目の当たりにしていた。
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「何て大都会なんだ」。汽車で四十時間をかけて到着したモンテビデオ市は、福原さんにとって全くの別世界だった。マテ茶を飲みながらかつて「南米のパリ」と呼ばれた欧風の町をかっ歩するウルグアイ人の洗練ぶりが、強く印象に残っているという。
福原家はモンテビデオ郊外で、日系人の手助けを得て花卉栽培を始めた。未経験だったが、「ここで成功しないと後がない」との一心が一家を後押しした。
「死に物狂いだったので苦労は感じなかった」と当時を振り返る福原さん。両手一杯に抱えた花が、最初に売れた時の感激は今でも忘れられない。
六九年には、六ヘクタールの農地を購入し、弟の金剛さんと独立。金剛さんの妻はブラジルの二世だ。福原さんは七六年に花作りを金剛さんに譲り、日系企業などで通訳や翻訳を務めてきた。
七四年に長女の一津さんと七七年に長男の道一さんが誕生した福原家。多数の国籍が同居することも、ウルグアイではありふれた光景だけに「意識したことはない」と笑顔を見せる。
大きな青空が広がるウルグアイの大地で、たくましく生きる日系人がいる。
(つづく、下薗昌記記者)