12月9日(火)
約五百人規模とみられるウルグアイの日系社会。唯一の日系団体である日本人会を中心に結束し、親睦はもちろん、会員らが助け合う場として機能してきた。ただ、近年ではブラジル同様、出稼ぎによる空洞化や、三世以降の会員減少などの悩みを持つ。そんな日本人会の切り札が、今年八月に就任した日本人会初の女性会長、前堂喜久子ネリーさん(六〇)だ。
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親子揃って会長の要職についた。一九三三年の第一期日本人会で書記を務めた父、盛松さん(故人)もウルグアイでは珍しくない再移住者。ただ、見えない運命の糸が、盛松さんを南米に導いたという点は特異だ。
「父はもともと南米に来るつもりはなかった」。ネリーさんによると、沖縄県人の盛松さんは、ハワイに移住した姉に遊びに来ないかと誘われ、船に乗った。
十六歳の少年盛松は、出迎えるはずの姉を捜したが、港にその姿はない。
唯一の頼りの姉は、そのころ帝王切開による手術のため、ベッドの上だった。
途方に暮れた盛松さんは、そのまま船に居残り、移民らと共にアルゼンチンに渡った。
「当時、ハワイまで片道三カ月。それで父は帰国を諦めたの」とネリーさんは父の心境を代弁する。
当初運転手などを務めた盛松さんだが、やがて大勢の日系人同様、洗濯業を営み、一九二四年にウルグアイに渡ってきた。
当時の在留邦人はわずか八人。盛松さんはウルグアイ初の洗濯業としても名を残している。
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「世界一の父でしたよ」 亡き父を語るとき誇らしげに胸を張るネリーさん。ブラジル同様、子弟教育熱はここでも高い。
モンテビデオ市内で洗濯業を順調に営んでいた盛松さんだが、第二次世界大戦の余波はウルグアイにも無縁でなかった。
三九年の開戦当初はパナマ宣言による中立を保ったウルグアイも、四三年二月に日本に対して宣戦布告。同市内では、日系人に対する迫害はなかったが「リスタ・ネグラ(ブラックリスト)」による資産凍結など、冬の時代が訪れる。
「念のために父は洗濯屋を辞め、郊外で花作りを始めたんです」。
モンテビデオ県に隣接するカネロネス県で、慣れない花卉栽培に苦闘しながらも、ネリーさんを含む四人の子供たちには高等教育を欠かさなかった。
「お前たちに残せる遺産は、ちゃんとした資格を身につけさせること」||盛松さんの口癖だ。
小児科医の道を選んだ時に、適切なアドバイスをくれた父は、ネリーさんが医師資格を得た七〇年にはすでに世を去っていた。
「小さいときからの躾と教育のお陰で今の私がある。本当に感謝しています」 父への思いが、日本人会の活動方針にも結びつこうとしている。
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現在、第四次を迎える日本人会。会員数減少に悩みながらも、会が存続した理由の一つが五十年の歴史を誇り、日本人会館内に併設する「日本語小学校」だ。
両親が日本語を話すにも関わらず、ネリーさんはスペイン語での会話を選んだ。日本語を本格的に学んだのは、約三年間を過ごした大阪外国語大と三重大での留学時代。
「子供たちには、私と同じ失敗は繰り返して欲しくない」と、ネリーさんは日本語教育の重要性を語る。
また、日本語を通じて若い世代を会に取り込むことが、会の活性化につながると信じている。
現在の会員数は約百人。百二十ペソ(約五百円)のわずかな会費さえ負担になる、と会員が増加しない上、デカセギによる空洞化も悩みの種だ。ネリーさんの弟ホルヘさん(五二)も大学で農業を学びながら、現在は日本で自動車工場で働いている。
「親が仕事を継がせたくても、経済的な問題があるから……」と表情を曇らせるネリーさん。
会長として会の舵取りはたやすくないが、一歩も引くつもりはない。
「子供たちに祖先の国、日本を好きになってもらえる活動をしたい」
若い世代が未来を担う||小児科医の顔を持つ女性会長ならではの心意気だ。
(おわり、下薗昌記記者)