12月13日(土)
【フォーリャ・デ・サンパウロ紙9日】サンパウロ市内の有名なチエテー川。熱い日には汚臭を放ち、そばの環状線道路を運転する人々の気分を悪くする〃ドブ川〃と化した。だが約80年前、20年間にわたって、その川で毎年「サンパウロ水泳大会」が開かれていた。その大会で特別賞を5回受賞したのは元宝石業者で年金生活者のマックス・グラーベルさん(81)。今回のフォーリャ紙特別企画「わたしはあの時あの場所にいた―サンパウロ市制450周年記念特集」では、グラーベルさんに水が澄んでいたころのチエテー川の愉快な水泳大会について話してもらった。
サンパウロ水泳大会は、1924年から1944年まで毎年開催されていた行事。年末の「サンシウヴェストレ・マラソン大会」に匹敵するほど重要なスポーツイベントで、数千人の観客が毎回訪れていた。
グラーベルさんは、エスペーリア・スポーツクラブに所属している。同水泳大会時代も、このクラブの代表として参加していた。
「サンシウヴェストレと比較するのは大げさではない。1941年の同大会の出場者は1957人。同年のサンシウヴェストレには、「数百人が参加した」と、当時のガゼッタ・エスポルチーヴァ紙が報道している。
チエテー川の水泳大会からは、マリア・レンクやジョアン・アヴェランジェなどのブラジル水泳界の大スターが誕生した。マリア・レンクに関してフォーリャ紙は、「バタフライ・スタイルを開発した当人」と興味深いコメントを掲載している。「大会に参加した選手はアイドル的な存在になった」とグラーベルさんは語る。彼自身、ブラジルにシンクロナイズドスイミングを導入した責任者の一人である。
水泳大会はいつも女子の部から始まった。「レディーファーストの意識があったし、それに〃事故〃に巻き込まれないようにという配慮もあったから」。
この〃事故〃とは、男子の部のスタート時に起こる衝突騒動のこと。「各水泳クラブの〃機動隊〃が相手チームを妨害し、エリート水泳選手がスムーズに泳げるように〃道〃を開いていた」と話す。
グラーベルさんは当時、水球のゴールキーパーだった。その強靭な体を買われて、いつも〃機動隊〃メンバーに任命されていた。「わたしたちは相手チームの選手の海水パンツ(短パン)をひっぱったり、ヒジテツをくらわせたりして、相手チームのエリート選手を何としてでも阻止しようとした。何でもありで、とても面白かった」と思い起こす。「大会終了後には盛大なパーティーが開かれ、全員一緒に食べて笑って一件落着。暴力的なものではなく、健康的な大会だったのです」。
水泳競技はヴィラ・マリーア橋からスタートし、5500メートル先のエスペーリア・クラブ(現在のバンデイラス橋)がゴールだった。草木が生い茂り、小農場や釣り人などが美しい風景を構成していた。
だが40年代には公害問題が始まった。川岸に工場が建設され、川に直接汚水を流すようになった。しかも43年8月には、同大会の開催者であるジャーナリストのカスペル・リーベロ氏が飛行機事故で死去し、翌44年が最後のサンパウロ水泳大会となった。
グラーベルさんは声を震わせて、「とても悲しかった。いつか、あの美しい川がこんなドブ川になってしまうと誰が想像しただろうか? 今の死んだチエテー川を見ると心が痛む。水泳大会の話をすると、誰も信じてくれないんですよ」と語った。