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消えなかった日本語教育=戦中、戦後の日系社会混乱の中で(4)=「村の日語校再開させたい」=大浦さん=警察の副署長に直訴

12月13日(土)

 日本は戦争に敗れて、焦土と化した。祖国に帰れないなら、ここ(ブラジル)に古里をつくろう――。
 戦後間もなくのスザノ福博村。村内の日系人宅を一軒一軒歩く二十歳そこそこの青年がいた。「日本語学校を再開させたいのですが、子供を通わせてくれますか」。警察当局を恐れる保護者をなだめては、生徒の確保に奔走した。
 「日本語を教えれば、農村の文化レベルも上がり、それはブラジル社会にも貢献することになる」
 大浦文雄さん(香川県出身、七九)には、そう確固たる信念があった。
 戦争中は、ラジオで情報を手に入れた。日本軍の戦況は良くないと認識。玉音放送を素直に受け止めたという。四歳で移住した準二世にとって、福博村こそ古里だと思った。
 「『植民地』といえば腰掛けのような意見合いが強くなるから好きでない。ここで生き、生活しているのだから、村と呼ぶべきだ」
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 当時はまだ、十四歳未満への日本語教育が禁止されている時代だった。そこで、人間が容易に立ち入れない山中に、泥壁にサッペで葺いた小屋をつくり教室とした。
 外国語教育の規制強化で四〇年九月十一日に閉校して以来、六年半ぶりに、スザノ福博小学校(中央校)は再スタートを切った。四七年三月のことだった。
 まだまだ、日本人の集会について当局の目がうるさかったため、中央校のほかの三カ所に分校を設置。各校に一人ずつ教諭を配属した。
 中央校の初代教師(戦後)は、井戸千代子さんに任せられた。女子師範学校卒ということから、白羽の矢が立った。「人格的にも優れた人だった」と大浦さん。喘息も持っていたのにかかわらず、険しい山道を歩いて登校したという。
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 「今日、××学校の先生が警察に連行された」
 こんな話がちょくちょく伝わり、学校関係者の懸念材料になった。「当局から許可を得よう」と大浦さんは決心。スザノ駅のソアレス駅長(警察署副署長兼任)のもとに向かった。
 「日本語学校を始めたいと考えています。日系子弟は移住地の中で育っているので、いきなりブラジル学校に入れたら、カルチャーショックを起こしてしまいます。その前に、日本語学校で共同生活を学ばせたいのです」。既に開校に踏み切っていることを除いて、本心をぶつけた。
 ソアレス駅長は渋い表情を浮かべ、重い空気が流れた。しばらくの沈黙のち、こう答えたという。
 「今、君が話したことは何も聞かなかった。それではまた」。つまり、黙認したのだ。
 現地の日本人会は四〇年、日語学校の閉鎖とともに、業務を休止した。が、青年部は解散せず、戦後、日本人会が再組織されるより前に、活動を本格化。村の実態調査などを手掛け、〃古里〃の発展に寄与した。
 「一世は村の基礎を築いた。骨格をつくったのは我々、準二世です」。大浦さんの声に力がこもる。つづく。(古杉征己記者)

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■消えなかった日本語教育=戦中、戦後の日系社会混乱の中で(3)=戦勝派の家族に食料援助=飯田さん=「私は〝灰色〟貫いた」
■消えなかった日本語教育=戦中、戦後の日系社会混乱の中で(4)=「村の日語校再開させたい」=大浦さん=警察の副署長に直訴
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