新年号
04年1月1日(木)
サンパウロ市南西部、ピニェイロス川にかかる橋の上にいる。
右手に天を衝くガラス張りのビル群が、左手には河岸に生い茂る雑草が見える。その景観の対比に、かつてサンパウロを評して「野育ちの都市」と言った人類学者レヴィ・ストロースを思い出す。
サンパウロ大学の教授としてフランスから赴任してきた彼は日々発展途上の街を眼前に驚く。「みずみずしさから老朽へ、古めかしさという段階に立ち止まらずに移っている」。ときは一九三五年、市人口が百万を突破して間もない頃だ。
「ヨーロッパの都市にとっては」と彼は続ける。「何世紀も経ているということは昇進を意味する」。一方、「絶え間ない更新への渇き」の中にある「新世界の都市」にとって、「年を経るということは転落なのである」と。
当時の軽く十倍、一千万を凌ぐ人口を抱えるただいまの市中を歩いてみても、その見方は決して古びていない。「更新への乾き」が実感を持って迫ってくる。
市最大のビジネスセンターに成長したここマルジナル・ピネェイロス界隈を見渡していて目立つものがある。外資系企業の看板だ。昨今はとりわけイベリア勢が元気だそうだ。
ポルトガル人マヌエル・ダ・ノブレガ、スペイン人ジョゼ・デ・アンシェッタ二人の宣教師が街の礎を築いたと思い起こせば、面白い現象であろう。歴史は繰り返す。四百五十年を経て再びイベリア勢がサンパウロに新天地を求めている。
いまは飛行機の時代だが、あのころは海岸山脈を越えタマンヅアテイ川を船で下ってやってきた。その誕生の地(現パチオ・ド・コレジオ)はアニャンガバウ川とタマンヅアテイ川の合流点とされる。北にチエテ川、西にピニェイロス川。サンパウロは実に豊かな水路に囲まれ発展してきた。
川辺は市民の憩いの場でもあった。水明のチエテは遊泳、ボートのメッカ、椰子の木が川辺に揺れたピニェイロスを「サンパウロのコパカバーナに」と本気で提案した市議もいた。
そんな往時の姿を取り戻そうとする動きが最近になって浮上している。リバーサイドの再活性化が世界の多くの大都市の共通課題となるなか、都市計画局のジョルジェ・ウィルハイム局長も「汚染を取り除き、泳げる河岸、そしてピクニックにうってつけの場所を」と前向きのようだ。
並んで一部進行中のプランが「旧市街」と「旧工業街」の復興である。未来のサンパウロの鍵を「外資」と「環境」が握るとすれば、二十世紀のそれは「移民」と「工業」にあった。 一九〇〇年にわずか二十四万足らずだった街が今日の様相にあるのは、このふたつを主な動力源として膨張してきたことによる。
さまざまな歴史が刻まれる両街の魅力をどう再生させるか。常に新しさを追いかけてきたサンパウロがいま初めて立ち止まり試行錯誤していく課題でもある。