1月8日(木)
グランドピアノが一台、壁には美男の誉れが高かったその肖像写真や自筆の楽譜などが飾られている。
にぎやかな目抜き通りを望むコパカバーナのアパートの一室に、ミニョーネの功績を称える文化センターはある。没後五年の九一年に創立した。
理事長の未亡人マリア・ジョゼフィーナさんは九三年、リオの姉妹都市神戸で公演したこともあるピアニストだ。夏の国際音楽祭。ナザレと、もちろん夫の曲も演奏した。
センターでマリアさんに会った。牧田さんとはもう二十年来の知り合いという。八一年からリオ市立ヴィラ・ロボス音楽学校に入学した経験をもつ牧田さん。当時の校長がミニョーネだった。
マリアさんは開口一番、「日本の『音楽之友社』からミニョーネの子供向けピアノ曲集の楽譜が出たんです」とうれしそう。ロボス協会関西支部の村松民子さんが仲介してくれた、と感謝する。
「民子はかつてサンパウロに滞在中、ミニョーネの曲にほれ込んで、わざわざ飛行機でマリアさんのところに練習に通っていた」と牧田さんは話す。
ナザレはイパネマ、ロボスはラランジェイラス生まれでともにカリオカ。だが、ミニョーネは違う。
人生の大半をコパカバーナで過ごしたのは確かでも、生まれはサンパウロ。貧しいイタリア移民の家庭で育った。父親がピアノを借りてきたのは六歳のとき。映画館などでの演奏で腕を磨き欧州各地で活躍する機会を得るまでに。
ロボスの十歳年下だ。
「ブラジルではミニョーネとロボスが作曲の二大天才のようにいわれますが、彼は大変に努力の人。学ぶことを嫌った独創のロボスは天性の人でしょう」
「ロボスが作曲においてブラジルの大地に足を降ろしたとすれば、彼はブラジルの心に足を降ろした」とマリアさんはみる。
インディオ音楽の収集に熱心だったロボス。「ショーロス」はその代表的な作品だろう。一方、「マラカツ・デ・シッコ・レイ」など、黒人文化をよく研究したとされるミニョーネは、「ワルツの王様」の異名を取ったことでも有名。代表曲は十二番まである「ヴァルサ・デ・エスキーナ」。
マリアさんは「彼のヴァルサはセレナーデに影響を受けて出来たもの。ロボスもそうですが、一時期、大衆音楽を作曲することで食い扶持を稼いでいた」。
ブラジルの大衆音楽はクラシック音楽とともに発展した歴史がある、といわれる所以のひとつだ。
ショーロ、サンバ、ボサノヴァと、リオは大衆音楽の層が厚い。それはクラシック音楽の豊かさに裏打ちされたものだった。
牧田さんはいう。「リオからしばしば良いピアノ奏者が出る。というのも、かつてピアノが一家に一台という時代があったそうです」。
市立劇場が一九〇九年に建てられた当時、「三日に一回はオペラが上演されていた」との逸話が語り継がれるほど、その音楽環境は恵まれていた。
そんなリオにあって、牧田さんが「最高のホール」と絶賛するサーラ・セシリア・メイレーレスを旧市街ラッパ区に訪ねた。
約千五百席。「マイクなしでもギターの独奏が出来る」という。地元の日系人奏者らが出演するリオ日系協会主催のクラシックコンサートをここで開催していた過去がある。
一八九六年に建てられたときは倉庫だった。それが政治家ら往時のVIPが泊まる高級ホテルとなり、次いで映画館に模様替えした。コンサートホールとなったのは六五年からのこと。
歴史が降り積もっているといえば、ラッパ区もそうだ。植民地時代の退廃と享楽の名残が香る街並みは今も昔も音楽家などボヘミアンたちを魅了してきた。
周辺にはポルトガル音楽のファドを聴かせる店、サンバやショーロを演奏するバーなどが軒を連ねる。昼間は鮮烈な太陽と海原の光に満ちるリオだが、いとたび、夜の帳が下りれば、港街らしい甘美な響きがそこかしこから漏れ聞こえてくる。 (小林大祐記者)
■旧都リオの古典音楽=ヴィラ・ロボス協会名誉会員 牧田弘行さんにきく(上)=大地を歌う民族主義派=ブラジル音楽名奏者の宮崎氏