1月31日(土)
日本語学校を我々のもとに――。敵性資産として太平洋戦争中に国に接収された旧サントス日本語学校の返還を求めるため、現地日本人会が署名運動に乗り出した。これまで、政治家に働きかけたりするなど精力的に動いてきた。政府との交渉は膠着状態に陥っており、民意に訴えることにした。第一回笠戸丸移民(一九〇八)が第一歩を印した街、サントス。四年後の移民百年までに返還を実現させたいという声は大きい。
「学校が戻って来れば、利用するのは二世や三世。だから、若い世代に積極的に関わってほしい」
返還運動の旗手だった上新さん(八二)はそう願って、今月十五日、日本人会の会長から退いた。二十五年間、陣頭指揮をとってきたが、高齢で体力が限界にきたのだ。
日本語学校は資産を凍結されたままなので、日本人会所有の会館は無い。そのため、役員会議はこれまで上さん宅で開かれてきた。電話も上さん個人のものを提供した。「家族にかかる負担も大きかった」。
辞職を決意する前に、考え出したのが署名運動。これまでラジオ体操の仲間などに呼びかけ百人分を集めた。目標は一万人。達成したら連邦政府に提出する考え。
「一般市民に日本人会の存在を認めてもらうのが大切」と思って、運動会に非日系人の子供を参加させ市主催の行事にも積極的に協力してきた。もちろん、内部に反対する人もいたが、すべては学校を取り戻すためだ。
「日本移民百年祭をサントス日本語学校がわれらの手に戻る年としたい」
後任の遠藤浩会長(六九)は「署名運動は日本人会が引き継いでやっていきます」と上さんの思いに敬意を払う。返還委員会を組織。これまでの経緯を調べた上で、今後の戦略を立てていく考えだ。
時間がかかると前置きしながら、「二〇〇八年の百周年までに解決したいという意見も目立ちます」と早期実現に向け意欲を燃やす。
移民百周年にはグァルジャー、サンビセンテ、プライア・グランデの日本人会と共同で記念事業を企画するという話も進んでいる。
【サントス日本語学校】一九二九年にサントスで日本人会が結成され、それを経営母体にして建設された。領事館をはじめ、旧海外興業株式会社や旧カーザ東山の支店などが市内にあり、四〇年ごろには二百人以上の生徒が通っていたという。太平洋戦争が勃発すると、ブラジルは日本と国交を断絶。四三年七月に、サントス市内に居住する日独伊の枢軸国民に対して、立ち退き命令を発令した。これに伴って日本語学校も収用されることになった。現在は州軍警の管理センターになっている。