2月7日(土)
【ジアーリオ紙系ジャー誌1月11日】ブラジルのカーニバルは17世紀、ポルトガル人によって伝えられた。
サンパウロでは、クアレズマ(四旬節)の前の週に、セニョール(奴隷主)たちと奴隷たちが一緒になって、歩行者に泥水や小麦粉、腐った卵などを投げて遊んだという。
20世紀初め、上流階層の間で仮面舞踏会が開かれるようになった。一方、下流階層の人々はカーニバル・パレードの原型とされるコルドン(列をなして騒ぐ群衆のこと)で楽しんでいた。
1914年、バーラ・フンダ区の道路で大規模なコルドンが行われた。そのコルドンを率いた責任者らはその40年後、カミーザ・ヴェルデ・イ・ブランコを創設している。
1920年代、コルドンの開催地はパウリスタ大通りに移転。顔に絵の具を塗り、カラフルな洋服を着て楽しんだ。飾り付けられた乗用車に乗って参列する人もいた。
1930年1月1日、ベラ・ヴィスタ区で、現在のエスコーラ・デ・サンバよりはシンプルな「ブロッコ」が登場。その1年後、ブロッコはカーニバル・グループ『ヴァイ=ヴァイ』と名付けられた。1935年、サンパウロで初めてのエスコーラ・デ・サンバとして、道路を練り歩いた。サンバ=エンレード(エスコーラのサンバのテーマ曲)もなかったので、リオで歌われていたものを歌った。
1940年代、サンパウロのサンバは組織化していった。同市東部では1949年、『ネネー・デ・ヴィラ・マチウデ』が登場。中心部コレイオ広場で愉快なパレードが開催された。
1977年には、サンジョアン大通りからチラデンテス大通りへ移り、1992年までカーニバル・パレードが開かれた。
サンパウロのカーニバルは道路で楽しむものだけではない。カーニバル舞踏会も1950~70年の間に最盛期を迎えた。1980年代には、舞踏会はボアッテ(ナイトクラブ)で開かれるようになった。