2月20日(金)
ブラジル日本商工会議所(田中信会頭)は、ブラジル日本移民百周年記念祭典協会(上原幸啓理事長)から会計理事を出すことを要請されていたが、一月中頃に断っていたことが、先ごろ明らかになった。いわば財務面での後ろ盾的存在を拒否されたかっこうであり、今後の記念事業のあり方に大きな波紋を投げかけている。
祭典協会は昨年十二月五日の理事会で、会議所に対して第二会計理事を推薦するように依頼していた。出席していた会議所代表は「持ち帰って常任理事会にかける」とその場で返答した。会議所では、一月半ばに行われた常任理事会でこれを断ること決め、祭典協会側に伝えていた。
平田藤義事務局長は断った理由を、「会議所は〃側面〃から協力しようと考えています。会計に理事を送ると、むしろ主役の一人に転じることになってしまう。日系社会委員会も作ったので、そこを窓口に対応していくつもりです」と説明した。
「いや~、困りました」とある祭典協会役員はコメントした。周年事業の主体となる文協と会議所とは、かつて二人三脚ともいえる体制をもっていたが、時代は変わりつつあるようだ。
最後の大きな記念行事であった一九九五年の日伯修好百周年では、コロニアにも実業界にも顔の利く故・橘富士雄氏(南米銀行名誉会長)がサンパウロ日系協力委員会の委員長となり、副会長には会議所会頭、文協会長、県連会長、援協会長、日伯文化連盟会長が就任した。財務委員長には伝田耕平南銀会頭(当時)がなるなど、戦後の日系コロニアが周年行事を実施する時のパターンが踏襲されていた。
ある会議所会員はいう。「あの頃は、橘さんの指導力があった。今回はそういう人がいないのも関係しているのでは」。当時、日系企業には規模ごとに数万から数千レアルの割当て金が振り分けられていた。景気の低迷とあいまって「相当、負担になっていたのは確か」と懐古する。
地場企業が幅をきかせていた七〇年代などと違い、現在では会議所役員の大半は、数年で入れ代わる進出企業駐在員によって占められており、修好百周年のことを知る人も少ないのが現状だ。今回の一件で、コロニアと進出企業をつなげる人材がいなくなったことを背景に、学術、法曹界出身二世が中心となった祭典協会では、実業界に顔が利かないことが結果的に露呈されてしまった形だ。
財務面での裏付けなくしては、どんな立派な百周年記念事業が打出されたところで砂上の楼閣になりかねないだけに、祭典協会側の対応に注目が集まりそうだ。