2月27日(金)
【東京支社】二〇〇〇年七月十八日、ドミニカ日本人移民の提訴が行われ、同裁判(主任弁護士菅野庄一氏)も三年余がたった。
裁判中に死亡した原告もおり、現在の原告数は百七十四名。
昨年七月には超党派国会議員たちによる「ドミニカ日本人移住者問題解決を進める国会議員懇談会」(会長・尾辻秀久=自民)を設立。本年二月二十四日には、鹿児島市内で「ドミニカ移民訴訟を支える会」の設立大会が開かれた。
二月二十三日、東京地裁七〇三号法廷で午前十時半から開かれた第十七回口頭弁論には、元玉川大学教授の若槻泰雄氏(八〇)が原告側証人として法廷にたった。
同氏は、東京大学法学部卒。農林中央金庫を経て一九五四年から一九六三年まで日本海外協会連合会(国際協力事業団の前身)に勤務。その後、玉川大学農学部教授となる。『海外移住政策史論』、『発展途上国への移住の研究』、『外務省が消した日本人―南米移民の半世紀―』などの著者としてもよく知られる。
一九五二年、講和条約発効の年、戦後第一回のブラジル・アマゾン地方に対する集団移住が実現し、政府の手による「計画移民」が開始。外務省欧米局第二課にあった移民係りが移民課に拡充され、その実務を担当として「財団法人日本海外協会連合会」(海協連)、その下部組織として各県に地方海外協会が結成された。
海協連の仕事は、広報宣伝、移民募集、選考、送出など実務を政府の委託による実施だった。
若槻氏は、海協連職員として、戦後移住の実態を知る貴重な証言者である。
当時、明治時代につくられた「移民保護法」が存続しており、斡旋人である「移民取扱人」への責任が厳しい問われていた。「計画移民のなかでもとくに開拓移民への政府関与は強く、戦後の開拓移民の移民取扱人は日本政府である」と若槻氏は指摘する。
戦後移民の送り出しは、
満州移民とそっくりだった。海外移民の権限をめぐり、外務省と農林省の権限争いは、すさまじいものであり、当時の文書にも明記されている。それらからも、移民送り出しが日本政府の手で行われたことは明白である。
一九五四~五五年には、よく「国策」という言葉使われている。
海協連には、何事にも決定権はなく、雑用係りに過ぎなかった。理事の多くが官僚の天下りであり、当時、理事会が開かれたのも創立時ぐらいだった、と若槻氏は証言した。
海協連は、選挙時には選挙事務所につかわれ、また幹部による寄付金横領があったり、まさに腐敗した組織だった。
もちろん移住地の調査もずさんそのものだった。ブラジル・アマゾンに関する分厚い上塚司報告書(約三十三万字)に比べ、ドミニカ移住のための吉岡調査書は数枚(約九千字)に過ぎなかった。調査項目も欠落だらけであった。そんな調査書をもとに企画が立てられ、広報が行われたのである。
若槻氏の証言は、ドミニカ移民にかぎらず、まさに戦後日本の海外移民の暗部を白日のもとにさらすものであった。
被告側弁護団による反論は、到着したばかりのドミニカ移民の希望に満ちた言葉を掲載した新聞記事の引用をはじめ、傍聴者の失笑を買うものだった。
地裁の判決は、早ければ本年前半にも、と推測される。
ドミニカ移民の原告側にはブラジル、パラグァイ、ボリビア、アルゼンチンなど南米諸国の移住者たちから、激励の言葉が多数寄せられている。