3月 9日(火)
わずか四ヶ月前までブラジル国籍しか持たなかった日系三世は、緑に輝く芝生に直立していた。
まだ真冬真っ盛りの今年二月八日――。
埼玉スタジアムで行われたサッカーアテネ五輪代表の対イラン五輪代表戦。トゥーリオから「闘莉王」と名を変えた男は、紅潮した顔を引き締めながら、試合前の国家斉唱に挑んだ。
《君が代は 千代に八千代に さざれ石の……》
身長一八五センチ、体重八二キロの長躯をより一層大きく見せつけるごとく、田中マルクス闘莉王(二二)はピンと背筋を伸ばした。
「国歌を歌う瞬間が一番気合が入る」。日ごろから「気合」を自らの最大の特徴と位置づける男だけに、国歌斉唱は最高の儀式。祖父母が生まれ育った地に思いを馳せながら、初めての君が代を口ずさんでいた。
日の丸を付けた初の公式戦ながら、グラウンドの中では存在感を見せつけた。
その特徴である対人プレーの強さはもちろん、十六歳までブラジルのクラブに所属しただけに足技も正確。また、持ち前の闘争心で仲間を鼓舞しつづけた。
「勝たなきゃいけない試合だった」。一対一の引き分けに終わったことに悔しさを滲ませたが、この日スタジアムに詰め掛けた二万千四百十四人の観衆は、この日新たな「サムライ」の誕生場面を目撃した。
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「代表入りして、日本に恩返しがしたかった」。
帰化の動機を振り返る三世は、時に鬼神にも似た表情を見せる試合中とは対照的に温和な笑顔で語る。
恩返し――十六歳で来日した自分をプロ選手にまで成長させてくれた感謝の気持ちを闘莉王はこう表現する。だが、その道は自分自身で切り開いてきた。
<日本語で話しかけられたらどうしよう……>
一九九八年三月、千葉県の渋谷幕張高校のサッカー留学生として、日本に向かうJAL機に搭乗した十六歳の少年は不安でたまらなかった。海外はおろか、飛行機さえ初めてだった。
祖父母は一世とは言え、二世の父とイタリア系の母を持つ闘莉王は、日本語を全く理解出来なかった。
なまじ日系の顔を持つだけに、スチュワーデスは遠慮なく日本語で話し掛けてくる。食事も飲み物も、話す機会が増えるだけに苦痛だった。困り果てた彼は、ついには毛布を被って寝たふりまでする。
<こんな思いはもうイヤだ。日本に着いたらすぐに引き上げよう>
二十四時間のフライト中、取った食事は一回だけ。
「地獄」と振り返る最初の一年間の幕開けだった。
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「日本に適応できるかどうかが重要なんです」。
闘莉王をスカウトした渋谷幕張サッカー部の宗像マルコス望監督(四五)は、選手選びをこう語る。
自身、ブラジル生まれの二世である宗像もまた、かつてはJリーグの前身に当たる日本サッカーリーグの東洋工業でプレーするため、八一年に単身来日。異文化の中、格闘した経験を持っていた。言葉はおろか、あまりにも低いサッカーのレベルと常識の違い――。 宗像にとっても日本は当初、「地獄」そのものだった。
それだけに、ブラジルでの選手選びは慎重にならざるを得なかった。
八五年から同校サッカー部を率いる宗像は、八七年以来ブラジル人留学生を招聘し、戦力としている。
①中学の卒業資格②日本への適応性③親の理解――プレーに加え、宗像が着目するのはこの三点だ。
毎回、自らブラジルに足を運び、数多くの選手から留学生を厳選する宗像は言う。「上手なだけでは日本ではやっていけない」。
「地獄」を身をもって知る宗像ならではの教訓だ。
九八年初め、宗像が三百人の中から選んだ留学生が闘莉王だった。日系人では初めての選出だった。
「この祖母に育てられたのなら、この子は間違いなく成功する」。
宗像が闘莉王を選んだ決め手は、富山県生まれの祖母、照子(七六)の存在だった。
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今年八月、ギリシャのアテネで行われる夏季五輪に向け、サッカーアジア最終予選が幕を開けた。ブラジルから六人目の帰化選手として日の丸を担う日系三世、田中マルクス闘莉王の生き様と彼を取り巻く人模様を追う。(敬称略、つづく)
(下薗昌記記者)