3月10日(水)
カッカッカッ――時折、町中を走る馬車の音が牧歌的な雰囲気を漂わせる。
サンパウロ市から北西に約六百五十キロ。牧畜で知られるパウメイラ・ドオエステ市は人口約一万人ほどの小さな町だ。
在住する日系人は約六十家族で三百人足らず。信号機が一台もないサンパウロ州とマットグロッソ・ド・スル州の境に近いこの町に、闘莉王の原点がある。
セントロ近くの一軒家に在住する広島県出身の祖父、田中義行(八六)と富山県出身の祖母の照子だ。
「この子が日本の教育を受けられるなんて本当に夢のようです」
五歳の時に生まれ故郷を後にした後、一度も里帰りしていない照子は、日本行きを勧誘する渋谷幕張サッカー部監督の宗像マルコス望に涙を見せて喜んだ。
「あのお祖母さんを見て、育ってきた家庭環境がすぐ分かった」。礼儀正しく、教育に熱心な照子の存在が、闘莉王の日本行きを大きく後押しした。
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「トゥーリオが上手にカベサーダ(ヘディングシュート)を決めよった」
二〇〇一年三月十一日、義行は衛星放送の画面の中に映し出される孫の勇姿に、我を忘れていた。
渋谷幕張を卒業後、Jリーグのサンフレッチェ広島に入団した闘莉王はそのデビュー戦となる鹿島アントラーズ戦で、貴重な得点を挙げた。
「偶然、テレビを付けたら孫の名前が呼ばれているんですわ。驚きました」と満面の笑顔を見せる義行。
日本行きで大きな役割を果たした照子同様、プロ入りでは義行の存在が大きく関係した。
「何より祖父が生まれた場所のチームだったから」と振り返る闘莉王。
高校三年の全国選手権で活躍し、数多くのプロチームから勧誘されながらも、サンフレッチェを選んだのはルーツを重んじたからに他ならない。
「実は日本に行く時に祖父母のパスポートをコピーして持って行ってたんです。先祖のことを調べたくて」。プロ一年目の休暇を利用し、闘莉王は広島県佐伯郡に残る祖父の生家や親類の墓に足を運んでいる。
「ここから自分も始まったんだなと思うと感慨深かった」と闘莉王。
かつて米作りで知られたパウメイラ・ドオエステ市――。「一儲けして、東京オリンピックを見るために里帰りするつもりだったんけど、ダメだった」。
祖父が憧れた五輪の大舞台を今、その孫が目指す。
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「婆ちゃん、日本での最初の年は寂しかったよ」
日本に帰化後、初の里帰りとなった昨年十二月末、闘莉王は初めて照子に高校時代の胸の内を明かした。
自ら希望して渡った日本だが、当時所属したサンパウロ州のクラブ「ミラソル」ではプロ契約直前だっただけに、「レベルは低いし、グラウンドも土でしょ。正直、失敗したかなと思いました」と闘莉王。
また、かつて同じ悩みを持った宗像が、日本語の指導をしてくれたとはいえ、言葉の壁は大きかった。
一番困ったのは漢字しか表示していない男女トイレの見分け方だった。
「毎晩、明日になれば荷物をまとめて帰ろう、と考える繰り返しだった」
闘莉王は自ら「地獄」と称する一年目を振り返る。ただ、家族には泣き言を見せなかった。
「親には会いたかったけど、せっかく得た好機。逃げ出す訳にはいかない」
十二歳で来伯後、農業や牧場開墾に明け暮れた祖父の開拓者魂は闘莉王にも確かに受け継がれていた。
(敬称略、つづく)
(下薗昌記記者)