4月2日(金)
[神戸、既報関連]旧神戸移住センターの移住資料室で、五月末まで、モデルシップ友の会(田嶋昭三郎代表)による移民船モデルシップ展が、写真展も併設して開催されている。さきごろ、戦後「ぶらじる丸二世」の船長として、七航海、移住者を南米に運んだ川島裕・元船長(〈社〉日本船長協会名誉会長)が会場を訪れた。川島さんは、生涯を振り返り、船員生活を中心に往時の記録を残したい、と執筆中。
川島さんは、東京商船大学の前身である東京高等商船を卒業した。第二次世界大戦の真っ最中のころだった。卒業後、大阪商船に入社したが、そのまま海軍に応召。海軍時代は、幸運の空母といわれた『瑞鶴』の航海士として乗船、フィリピンへ最後の出撃の日の朝、転属命令で下船した。『瑞鶴』は、フィリピンの日本軍を援護するための〃おとり作戦〃で、集中砲火を浴びて海の藻くずと消えた。川島さんは危ないところで命拾いした。
戦前移民を運んだ「ぶら志る丸一世」は、一九四二年八月四日、トラック島沖で米軍の攻撃で沈没した。戦後、二世が建造された。川島さんは、同船の一等航海士として、のち船長としてブラジルなどへ移住者を乗せて七航海をつとめた。
移民船モデルシップ展を見て、往時の思い出がよみがえったようだ。五〇年代、ぶらじる丸でサントスに着いて、「日本は戦争に負けたんだよ」というと、在伯日本人に怒鳴られたという。「自分は海軍にいて敗戦を身をもって体験した」といっても、移民たちの多くは聞く耳を持たなかった。川島さんは、情報が伝わっていなかった当時の移民、移民社会の姿をまざまざ思い出したのである。
ぶらじる丸二世は、役割を果たし終えて、鳥羽湾(三重県)で海洋パビリオンとして海洋思想の普及と移住を紹介していたが、一九九六年、中国に運んで解体された。こうして移住にまつわるものが消えていくのである。(神戸の日伯協会の『ブラジル』から)
【旧神戸移住センター】
日本唯一の現存する移住者施設。この建物・施設を整備し、国立海外日系人会館とすべく、推進協議会が立ち上げられ、国への要望が行われている。〇八年までの実現をめざす。海外日系人の活動拠点にする新しい視野のもとに生き返らせようとするもの。