4月3日(土)
【エスタード・デ・サンパウロ紙三十一日】一九六四年三月三十一日、軍事クーデターが勃発した。共産党の合法化を図ったジョアン・グラール(通称ジャンゴ)政権は崩壊。同年四月二日、軍部は臨時大統領を擁立しクーデターを成功させ、以後二十一年間にわたる軍部独裁を敷いた。――軍事政権成立から四十年。軍政を生き抜いてきた人々の中には、現在政治家として活躍している人も少なくない。その時、ルーラ大統領やジルセウ官房長官、パロッシ財務相、セーラ元大統領候補は何をしていたのか? エスタード紙は現在活躍中の政治家の当時の様子を掲載している。
まずはクーデター勃発の概要を掲載する。
六一年九月に大統領に就任したジャンゴだが、あくまでも形式的なもので、実際には当時議会制だったブラジルの国会に最終的権限があった。六三年一月に国民投票が実施され、一千万票対二百万票で大統領制が敷かれ、ジャンゴは大統領としての権限を取り戻した。
当時、ブラジルは年間インフレ率五二%に及ぶ経済危機の真っ只中にあった。財政調整と国家成長を目標とするジャンゴは、左派の政党や労働組合側が提案した基本改革案を打ち出した。
だが政策は失敗に終わった。改革案に対する国会の支持を得られず追い詰められたジャンゴは六四年三月十三日、リオデジャネイロ市セントラル・ド・ブラジル駅前(軍事省の近く)で、国民の支持を得るために「改革を支持する集会」を開き、農地改革法案などに署名した。俗に言う「セントラル・ド・ブラジル集会」「十万人集会」である。
同十九日、サンパウロ市で五十万人が「自由を求めて神とともにあゆむ家庭人の行進」に参加。ジャンゴ政権反対を訴え、中心街を群集で埋め尽くした。
〃ジャンゴ打倒〃に対する国民の支持獲得を待ち望んでいた軍部は、この行進で機は満ちたと確信。そして六四年三月三十一日午前五時、ミナス・ジェライス州第四師団のオリンピオ・モウロン・フィーリョ司令官が反乱を開始した―。
二〇〇二年、労働者党(PT)のルーラ候補の対抗馬としてブラジル社会民主党(PSDB)の大統領候補に立ったジョゼ・セーラ元保健相は当時、全国学生連合(UNE)の会長を務めていた。二十二歳だった。
一九六三年十月、ジャンゴ大統領は人民運動戦線(FMP)、国家議会制戦線、UNEなどの幹部八人、士官級の軍人ら、レオネル・ブリゾーラ氏(当時下院議員)などを招集して秘密会議を開いた。その場でジャンゴは「大統領の任期をまっとう出来ないだろう」と発言していたことを、セーラ氏は記憶している。
六四年のクーデター勃発後、セーラ氏はラジオでUNE本部が放火されたことを知り、自分の身にも危険が迫っていることを悟る。セーラ氏は友人の親戚宅へ避難したが、長居するのは親戚に迷惑がかかると思い、サンパウロに身を隠した。
その後、ボリビア大使館経由でラパスへ亡命。フランスへ向かい、開発経済学の勉強に励んだ。ブラジルに帰国できたのは十四年後の一九七八年、三十六歳の時だった。
現PT政権の大物は?
一方、ルーラ大統領は当時十九歳。サンパウロに在住しており、アリアンサ金属工業で夜勤していた。六四年のある夜、疲れて居眠りした同僚が、ルーラ氏の左手を誤ってプレスで挟み、小指を切断してしまった。
六九年に大サンパウロ圏サンベルナルド・ド・カンポ市の金属工業労働組合に入り、七五年に委員長に抜擢された。ルーラ氏は委員長に就任後、クーデター後初のABC地帯金属工業ゼネストを実施した。八〇年に、国家保安法違反で逮捕され、三十一日間拘禁された。その後、労働者党(PT)を創立した。
ビンゴ疑惑のジニス氏を右腕として信頼していたことで、「辞任すべきでは?」という声まで上がっているジョゼ・ジルセウ官房長官は六四年、大学予備校生だった。
六五年、カトリック大学(PUC)の法学部に入学。それからすぐ大学学生自治委員会の委員長になり、サンパウロ州学生連合(UEE)の会長に就任した。六八年、同州イビウーナ市のUNE大会で逮捕された。
国家解放同盟(ALN)と十月八日革命運動(MR―8)が誘拐したチャールズ・B・エルブリック北米大使と引き換えに、ジルセウ氏は釈放された。
メキシコへ亡命したジルセウ氏は、そこからキューバへ行って形成手術を受け、ゲリラ戦術を学んだ。七五年、密かに帰国。パラナ州で、カルロス・H・G・メーロという偽名を使ってひっそりと暮らしていた。七九年、恩赦で帰国を許された。PT創立者の一人でもある。
そんなジルセウ長官と意見の食い違いが多いパロッシ財務相はというと、クーデター当時はまだ三歳。お友達から「オムツくん」というあだ名で呼ばれていた。サンパウロ州リベイロン・プレット市で両親と在住。八〇年代初め、医学生だったパロッシ青年は政治に興味を示し、トロツキストとなる。その後、PTと関係を持つようになった。