4月13日(火)
アメリカ合衆国ニューヨーク市は、祖国を離れて海外に暮らすブラジル人の多くが集中する。約三十万人が夢、人生の好機、仕事を求めて、この街にやって来た。三年間、アメリカへ移住したブラジル人七百人を調査、今年三月、著書「ブラジル・フォーラ・デ・シ(ブラジルの外のブラジル)」で結果を報告するサンパウロ総合大学(USP)の名誉教授、ジョゼー・カルロス・メイヒ氏に、インターナショナル・プレスがインタビューをしている。
――いつ、どのように、ブラジル人のアメリカへの移住処置は始まったのか。
第二次世界大戦直後、アメリカ人はブラジル産、特にミナス州で採れる雲母を買い始めた。最初はアメリカ人がブラジルまで買い付けに来ていたが、そのうち、ブラジル人にアメリカまで運ばせるようになった。それがニューヨークへの移民兆候となった。六〇年代、ブラジル軍部の独裁政治が始まり、多くの人々が不満を抱き、国外で学び、働くようになった。
――その時までは、上流階級の人だけがアメリカに行くことができたのか。
そうだ。七〇年代、移民の顔触れが少し変わった。科学者の交流や七三年のディズニーワールド開園にともない、学生や観光客の渡米が容易になった。この観光客らが、将来、渡米者するブラジル人向けに、観光分野での商売の可能性に気づき始めた。運転手やガイド、旅行業者、飲食店従業員などだ。「失われた年代」と呼ばれる八〇年代まで、その傾向は高まった。ブラジル経済危機は拡大し、多くのブラジル人が人生の選択肢としてアメリカへ旅立った。
――それでは、いま、アメリカに住んでいるのは。
低所得層で、ビル・クリントン政権で成し得た生活水準の躍進後、アメリカ人が毛嫌いするようになった仕事に就いている。もう少し裕福な層でヨーロッパ連合のパスポートを持つ人たちは、取引か観光目的でアメリカに行く。
――なぜ、アメリカに移住したブラジル人たちは下層階級職に就くのか。金のためだけか。
問題はとても複雑だ。まず、経済的な魅力だけではなく、例えば、第二の人生を歩みたい、商売に失敗した、家族が深刻な病気を抱えているなどが理由だ。人々は夢を抱き、空港を出る頃にはすでに手に職を得ていると思っている。そんなはずはない。二ヵ月で準備金は底をつき、人々は心理的にまいってしまう。無一文で帰りたくないが、そのまま居れる状態でもない。友達も家族も助けてくれる機関もない。小さな内職をしながら、身を粉にして働く。自分を見失い、どんな仕事でもするようになる。
――どんな仕事でも、とは。
麻薬を売り、エロチックな写真を撮り、そして、売春をする。さらに下層へと落ちる。しかし、興味深いことに、そうなったとしても、ブラジル人特有の考え、「私は行く、でも、いつか戻る」を保っている。
――その考えは、「私は居つくために行く」にはならないのか。
それは非常に珍しい。私は七百人にインタビューしたが、たった三%だけが居つくという意思を示した。
――ブラジルの日本人は故郷を懐かしむため共同体を作ったが、ブラジル人は集団や組織を作らないのか。
作らない。なぜなら、むこうには、大変な偏見によって構築された社会の再組織化が起きている。バイアーノ、パウリスタ、カリオカであることは、連帯感により組織されるブラジル人共同体の誕生を認めない。それに、生存競争はすこぶる激しい。もし、あなたが一時間二米ドルで仕事があり、私が無職ならば、私はあなたの仕事を一・九九米ドルで奪うというようなもの。みんな孤立している。
――著書のため七百人にインタビューをしたが、誰をおもしろいと思ったか。
特に二つのグループに興味が沸いた。一つはダンサーでもう一つは靴磨きたち。現在、約千人のブラジル人女性がニューヨークで踊っているが、全員が売春婦というわけではない。靴磨きには、六百人から千人が従事している。ニューヨークは職種が非常に組織だっていて、メキシコ人は花を売り、インド人は地下鉄で雑誌を売っている。ブラジル人は靴磨きだ。
――何か興味深い話はあるか。
いい話ではないが、アメリカには仕事の賃貸がある。例えば、一人のメキシコ人が庭師として一時間十二米ドルで雇用される。すると、そのメキシコ人はブラジル人に一時間三米ドルでその仕事を任せ、自分は悠悠自適に過ごすというものだ。すでにブラジル人同士でも、仕事の賃貸は行なわれている。 (おわり)
■日本以外の外国に住むブラジル人の生活=インターナショナル・プレス紙から=(4)=治安、地域によって大差=米国、大都市は魅力ない