4月14日(水)
日本語教育は日系社会の看板の一つ。新しい学習者層が生まれると、その需要を満たす形で教材が研究開発されてきた。教科書の発刊は時代の転換点─と表現しても大げさではないだろう。移民百周年が四年後に迫る。祭典協会が昨年発足。「日伯総合センター」の建設など記念事業が今月初めに、承認された。しかし、日系社会の総意がとれているとは必ずしも言えず、先行きは不透明だ。そんなときだからこそ、移民の足元を見つめてみたい。
「朕惟フニ我カ皇祖皇宗國ヲ肇ムルコト宏遠ニ徳ヲ樹ツルコト深厚ナリ…」(徳は旧字体)
昔、日本語学校で習ったといって、日系二世の清水芳美さん(七一、年金生活者)の口から、教育勅語の冒頭が次いで出てきた。
「ブラジル生まれだけど、日本人という意識の方が強い。家族にも日系人と結婚しなさいと口をすっぱくして言っています」
サンパウロから西に四十キロ。イタペセリカ・ダ・セーラ文化体育協会(長野健造会長)は今なお、奉安殿を保守。新年には必ず拝賀式を開き、東方遥拝と教育勅語の奉読を行っている。
コロニアの先駆者たちが持ち込んだ伝統的な思想文化を、消したくないという思いからだ。会は現在、三世が主体。梶原祥天前会長は「若い人たちも、あと二十年は、大丈夫と話しています」と自信をのぞかせる。
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イタペセリカ方面への日本人の入植は一九一五年に始まる。第一回笠戸丸移民(一九〇八)がサントスに第一歩を印してから七年後のことだ。
三四年には六十家族ほどに増え、子女の教育が共通の懸念材料として持ちあがってきた。多くは農村地帯に居住しており、小学校のある市街地まで遠かったからだ。道路や交通機関も十分に整ってはいなかった。
イタペセリカ日本人会(現文化体育協会)が三五年に組織されると直ちに、学校建設に着手。翌三六年の天長節(四月二十九日)に合わせて開校にこぎつけた。
「両親は二、三年で帰国するつもりで、子供が日本の学校に入ったとき、遅れをとらないように勉強させたかった。だから、学校は日本の延長のようなものでなければならなかった」
当時の教育方針について、清水さんの記憶だ。旧文部省(現文部科学省)検定の『尋常小学校国語』(全十二巻)が教科書に採用されたのは自然のことだった。〃日本人づくり〃を目標に、修身や算術(算数)の授業も時間割に組み込まれた。
二代目教師の故橋詰雄一氏は質実剛健をモットーにスパルタ教育を行い、児童が泣き出してしまうこともちょくちょくあったという。
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イタペセリカ市立小学校分校という形でブラジル学校(三年生まで)も併設された。市から派遣されたマリア・エレナ・ドゥアルテ・エ・シウヴァ教諭(ドイツ系)は親日家で、天長節には授業を祝賀行事に切り替えたという。
同教諭がアントニオ・ロペス警察署長代理(当時)に下宿していたこともあり、戦争中、日本人に対する弾圧はかなり緩和された。
奉安殿がつくられたのは四七年で戦後になってからだ。価値観の転換や世代交代があってもなお、今日まで引き継がれてきた。
イタペセリカにはかつて、イタリア系・ドイツ系コロニアが存在したが、今はもうない。ラシル・バウドゥスコ市長が日系人を称えて繰り返していう言葉がある。
「コロニアが残っているのは日系だけ。それは、我々の誇りです」
つづく。 (古杉征己記者)