4月15日(木)
パラグアイ戦争(一八六四~七〇)でのこと。オゾーリオ将軍の配下にジェズースという黒人兵がいた。将軍の命令を受け、ラッパを吹きかけた。ちょうどそのとき、敵の弾が腕を貫きラッパは口を離れた。
だが、それはちょっとの間で「進め、進め」。やがて、いま一つの弾が腕を直撃したが、ジェズースはしっかりとラッパを握って離さなかった。
『日本語讀本巻五』の冒頭に出てくる寓話だ。戦前の教育を受けた人なら、どこかで聞いたことがあると思われる方もいるだろう。
「キグチコヘイハテキノタマニアタリマシタガ、シンデモラッパヲクチカラハナシマセンデシタ」(原文のまま)
『児童用尋常小学校修身書巻一』(旧文部省)の十七「チュウギ」で取り上げられた内容をパラグアイ戦争に舞台に移し、ブラジル生まれの子供たちに分かりやすいよう題材を作り変えたものだからだ。
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日本語小学校の統制連絡と教員の指導を目的に、旧ブラジル日本人文教普及会が一九三六年三月に組織された。
日本政府は満州事変(一九三二)後、海外膨張政策をとっていた。国粋主義的な思想を植え付けるために、邦人社会で日本語教育を強力に推進。三七年に視学官として石井繁美を送り込んできた。
石井派遣前の普及会(前身は在サンパウロ日本人学校父兄会)の方針は、邦人子弟に日本人の美点を伝え、善良なブラジル人をつくることだった。二世向け『日本語讀本』(全八巻)の編集を三五年、古野菊生に依頼していた。
「例えば、『桜』と聞いても実物をみたことがないので、観念的には分かっても実感が沸かない。だから、ブラジルの日常に合った語彙に変える必要があったのではないだろうか」
二七年に四歳で渡伯、旧サントス日本人小学校で学んだ脇坂勝則さん(人文研顧問、八一)は同讀本の発刊について、そう見解を示す。
ページをめくると、「ファーカサガシニマヰリマス」(原文のまま)などとコロニア語の記述もみえる。
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古野は早稲田大学仏文科卒業。旧伯剌西爾時報記者で文学誌「地平線」の創刊者の一人。詩人でもあり、移民文学の質的向上に大きな貢献をした。
「リベラリスト」だった古野は日本的な情緒を子供に教えることに注力。編集に当たって、軍国的な色彩をなるべく取り除いた。
アンドウ・ゼンパチ(本名安藤潔、旧日伯新聞社編集長)は『移民四十年史』の中で、「文部省の国語讀本よりはるかにすぐれた内容だった」と評価している。
しかし、讀本が三七年に刊行されたときには、石井が既にコロニアの思想をナショナリズム一色で塗りつぶし、到底、受け入れられるものではなかった。内部関係者からも非難され、あまり歓迎されなかったという。
脇坂さんは秘話として、こんな思い出話を打ち明けた。「あれは確か、在外公館から喜ばれなかった。言ってみれば〃禁書〃だということです」。一部敬称略。つづく。
(古杉征己記者)