4月16日(金)
ジェツリオ・ヴァルガス独裁政権が三七年に発足すると、国家主義的な色彩の濃い政策を打ち出していった。「エスタード・ノーボ(新国家体制)」だ。
十四歳未満の子供に対する外国語教授が三七年に禁止(外国人入国法第八章第八十五・八十七条)。翌三八年十二月には、外国語学校(主に日独伊の枢軸国)の閉鎖にまで発展した。日本語教育は受難の時期を迎えた。
実は、サンパウロ州は三三年四月に教育令を発布。十歳未満の者に外国語教育を禁止する∇外国語の教師は検定試験合格者に限る∇外国語の教科書は予め監督局の認可を得たものに限る―などの方針を定めていた。年令に関する条項が強化されることになったわけだ。
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「人間は抑圧されると反発するものではないだろうか。日本人は当時、第五列(スパイの意)と呼ばれるなど揶揄された。そうなると、アイデンティティを保つ本能が働くもんですよ」
スザノ福博村村会顧問の大浦文雄さん(七九、香川県出身)は、この時代の邦人社会の意識をそう、言い表わす。
同村では、日本人小学校教諭が警察当局に拘引されたのを機に、首脳部は三九年に閉校を決断した。が、青年たちは納得せず、授業を引き継いだ。つまり、地下活動を展開したのだ。「日本語に対する熱意はオクターブ高くなった」。
従来通り、文部省(現文部科学省)検定の『尋常小学校国語』を基本に授業が続けられた。天長節の祝賀会や運動会といった行事も会場を畑の中に移すなどして続行したという。
青年会のメンバーは十五人ほど。毎週日曜日に、個人の住宅や鶏舎の隅で話し言葉を教えた。カバンを持ち歩くのは危険だから、トウモロコシを入れる袋に教科書を隠して運んだ。
日本人は一等国民、ブラジル人は三等国民だと教え込まれ、非日系人を「毛唐」と呼んだ。「日本人だということを忘れてたまるものか」――。そんな思いが心を駆り立てた。
ある意味ではコンプレックスの裏返ではなかっただろうかと、大浦さんはみる。邦人社会はまだまだ、貧しかったからだ。土着してしまわないためにも、日本語教育が重視された。
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太平洋戦争が一九四一年十二月に勃発、ブラジルは連合国についた。翌四二年一月に日本と国交を断絶。公衆の場で自国語の使用を禁止したり、敵性国資産を凍結するなど取り締まりを強めた。
いよいよ、スザノでも日本語教育の継続は無理だと判断。青年会の活動も中止せざるを得ない状況に追い込まれた。大浦さんは、蔵書をすべてミカン箱に詰めて山中深くに隠し、自宅には一冊も残さなかった。「たまにみにいっては『あった、あった』と喜んだ」そう。
日本語学校が再開したのは、終戦から二年経った四七年のことだった。当時はまだ、外国語教育に関する法令は効力を維持。非合法営業だった。日本語教育は農村文化の向上に寄与すると主張。ソアレス・スザノ警察署長(スザノ駅長兼任)に黙認させた。
学校が存在するという評判は邦人社会に伝わり、戦後、多くの移住者が奥地からスザノに移転してきた。つづく。
(古杉征己記者)