4月17日(土)
ほっといてくれ――。
一九四七年の暮れのこと。コチア産業組合指導部主催の懇談会「二世は一世に何を求めるか」が開かれ、二世は日本的な価値体系を拒んだ。旧パウリスタ新聞の報道によると、「一時は口角泡をとばす激越な論戦を展開した」。
太平洋戦争終結後、日系社会は空前の混乱期を迎えた。祖国の勝利を信じる戦勝派と敗戦を認める認識派が対立。テロ事件まで発生した。
その結果、日本移民禁止法案が四六年に憲法審議会に提出されるなど、ブラジル社会で排日機運が高まった。同法案は賛否同数の結果、議長採決で承認はされなかったものの、リオデジャネイロの有力紙は「国辱の日」とまで書きたてた。
このような時代背景の中で、日本的な文化習慣に背を向ける二世も出始めた。日系社会の再構築を願って懇談会が企画された。
田村幸重(元連邦下院議員)、氏原政喜氏、翁長英雄(ジャーナリスト)ら二世のインテリ層が招待を受けた。翁長氏は「ソセーゴ(平穏)を与えて欲しい」と発言している(移民八十年史)。
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「二世」という言葉は戦後になって使われるようになったもので、準二世を含めて「第二世」と呼んだ。「第二世は役に立たない(nao presta)」などと表現され、評価はいまいちだった。
脇坂勝則さん(人文研顧問、八一)は「ブラジルでの生活の中で、日々、日本的な価値観を失っていく子女の姿をみて、親が嘆いたものです」と明かす。二世側からは反発が徐々に高まっていくことになる。
「我々は日系子弟。だが、ブラジルで生まれたブラジル人である」―。二世の自己認識をめぐる運動は三〇年代半ばに起こった。
日本政府は満州事変(一九三二)を機に国家主義的政策を推進。邦人社会にシンパをつくるため奨学金を支給するなど、二世への働きかけに躍起になっていた。
政府の干渉に対して、「一部エリートから、ちょっと待ってくれという声が上がった」と脇坂さんは証言する。二世インテリ層によって、サンパウロ学生連盟が結成。機関紙『学友』にこんな文章が記載されたのは周知の通りだ。
「我々は父兄の祖国に対して尊敬を持つことはできる。しかしながら菊花の国のために愛国心は断じて起こり得ないのである」
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日本は敗戦によって焦土と化し、移民はブラジル永住を決意するようになった。子供に教育を受けさせなければならないと思って、奥地からサンパウロを目指した。
社会的な上昇を果たすためにはポルトガル語が大切で、日本語教育は不要だという風潮すら生まれた。これは移民史の定説だろう。
だが、村上トシエさん(日本語教師、六六)は「嫁にいったら姑と日本語で会話をしなければならないから、花嫁修行だといって日本語学校に通せられた」。
柳森優旧日本語普及センター理事長は「日本文化を失いたくないという一心で教壇に立った。日本語は必ず脚光を浴びると思った」と首をかしげる。
親子の意志疎通に日本語は不可欠で、実際に、日本語教育が消えてなくなってしまうことは無かった。つづく。
(古杉征己記者)