4月21日(水)
戦後間もなく、日本語教育は各地で再開された。と言っても、コロニア内ではっきりした教育理念は定まっておらず、混沌とした状態が続いた。
「ブラジルにおけるニッポンゴ教育は、当然、外国語としてのニッポンゴ教授でなくてはならない」(原文のまま)
そんな啓蒙運動をアンドウ・ゼンパチ(本名・安藤潔)が起こす。視線の先には、身近な環境から素材を拾ったコロニア向け教科書の作成があった。戦前から引き続いて十四歳以下の外国語教育はなお、禁止されており、伴わせて法令の改正も目指した。
「自分は金には縁のない男だ。だからせめて、『金』という字を分解して皮肉ってやろう」。アンドウは洒落のつもりで、「全八(ゼンパチ)」と名乗った。一九〇〇年、広島市生まれ。
旧東京外国語学校(現東京外国語大学)ポルトガル語学科第一回生で、昭和天皇ご成婚記念事業である「大毎移民団」の移民監督として一九二四年に渡伯。邦字紙記者や小学校教諭などを務めた。その後、一旦帰国し、結婚。三〇年代初めに再渡航した。
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三女の吉安安藤セシさん(六三)は「父は、親子の会話をとても大切にしました」と人となりを話す。
この世代の男性としては珍しく、子育てに積極的に参加。「一緒に散歩に出掛けたり、玩具で一緒に遊んでくれた」。バイオリンを習わすなど特に、情緒教育を重んじた。
アンドウは士族の家系に生まれ、父親に抱いてもらったことは無かったという。
「お母さんは天国にいったけど、お父さんはずっと、お前たちの側にいるよ」。四四年七月に妻が病死するが、子供たちの前では気丈に振る舞い、一人二役をこなした。
「ジャーナリストとして、日本語教師として、多忙な毎日でした。仕事にかける思いと同じくらい、いやそれ以上に家族を気にかけてくれた」
だが、平和は長続きしなかった。三年後に次男ウーゴ、その四年後に長男ジョージが死去。アンドウの我慢は限界に達し、三人の娘たちの前で顔をくしゃくしゃにして泣き崩れた。
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アンドウは友人たちの支えで立ち直りを見せた。月刊誌『ESPERANCA(エスペランサ)』(一九五六年一月~五七年十一月)の発行が復帰第一作となる。
二世のための読み物で、日本語の文法解説、時事問題、ブラジル文学の翻訳など幅広い分野を取り上げた。同誌主催の懇談会では、日本語教育の在り方が議論の俎上に上った。
このほか、新聞紙上で持論を展開。小冊子、『二世とニッポン語問題』―コロニアの良識にうつたえる―にまとめて五八年二月に刊行した。
「二世の人間像」、「外国語教育令の改訂をのぞむ」、「日本語讀本編集の方針と目的」などを柱にブラジル人である二世に適当な日本語教育を探る。
ブラジル人有識者に訴えるために翻訳を出すつもりだとはしがきで宣言。地方の市長、警察署長、グルーポ(小学校)の校長などに配布してほしいと呼びかけた。
宮尾進サンパウロ人文科学研究所元所長は「アンドウさんは、積極的に地方に出掛けていって、コロニア向け教科書の必要さなどを説いていました」と在りし日の姿を忍ぶ。
アンドウの日本語教育論とは具体的にどういうものだったのだろうか。敬称略。つづく。
(古杉征己記者)