4月27日(火)
一九五九年三月二日に神戸港を出帆、ベレンを経由し、五十三日間の航海の末サントス港に着いたあめりか丸(乗員三百八十四人)の渡伯四十五年を祝う記念式典が二十五日午前十一時から、ヴァルゼン・グランデ市のパウリスタ日本人会会館で行われた。同船者七十五人とその家族、来賓をあわせて約百人が参加、旧交を温めあった。
式典の司会者、坂東博之さんは「われわれは兄弟姉妹」と笑顔であいさつ。狭い船の上で長い間一緒に生活していた同船者間の親近感を強調した。
発起人は羽鳥慎一さん、木村磨澄さん、安武加寿之さんら七人。在サンパウロ総領事館の佐藤宗一首席領事、ブラジル日本文化協会の小川彰夫理事、コチア青年連絡協議会の高橋一水会長、ヴァルゼン・グランデパウリスタ日本人会の田村忠雄会長、当時のパトロンを代表して三上敬悟さん、戦後初期移住者を代表して黒木慧さんが続けて祝辞を述べた。
渡伯四十五年という節目のため、式典とその後開かれた同船者会にはマナウス、ブラジリア、ミナス、パラナなどブラジル全土から参加者が集まった。マナウス日本人会会長で「故郷は遠きにありて」「緑の塀の中の人々」「脅威の食文化」など多くの随筆を執筆している川田敏之さん(七三)は今回が初参加。原ゆりこさん(八五)は川田さんとの四十五年ぶりの再会に「いい思い出ができた」と涙を流して喜んだ。
あめりか丸には十二人の第一回コチア青年花嫁移民が乗船していた。現在も全員生きており、内九人は夫も健在。今回の同船者会にも元花嫁五人が参加していた。
そのうちの一人、日比野由実子さん(六七)が「私はブラジルに来る運命だったのよ!」と当時の記憶を語ってくれた。「会ったことも、話をしたこともない人よ。写真だけもってやって来たの」
日比野さんの夫・勝彦さんは日比野さんが来伯する三年前にコチア青年としてヴァルゼン・グランデに入植していた。当時コチア青年は四年の任期を過ぎると、独立しなければならなかった。二年目が終わりかけたとき、「独立をするにも一人じゃやって行けない」と、日本にいる両親に花嫁を捜してくれるよう頼んだ。
当時、日比野さんの従姉妹が勝彦さんの実家の近所に嫁入りしており、その縁で日比野さんに縁談が持ちかけられた。勝彦さんの父親がさっそく日比野さんに会いに行き、写真を持ち帰った。すぐに「こんなんがいるぞ」と写真を勝彦さんの元へ送った。
後日、日比野さんの元に一通の手紙が届いた。「ブラジルに来ないか」。プロポーズの手紙だった。「行きます」。そう返信し、二十二歳の日比野さんはあめりか丸に乗船した。
四月二十三日サントス港で二人は初めて出会った。「写真を片手に彼を探したの。それが、写真とまったく変わらない人でね、予想どおり優しくとてもいい人だったわよ」と、初対面の思い出を楽しそうに語った。
十年前の四月二十三日。ちょうど初めて二人が出会ったその日、勝彦さんは六十歳で癌のため亡くなった。「当時は強い農薬を使ってたの。それで、夫はアレルギー体質で、すぐに肌の荒れる人だったから、きっとそのせいで癌になっちゃったのよ」と少し、トーンを落とした。だがすぐ後に「あと煙草の飲み過ぎね!」と笑った。
ブラジルに着き、日比野さんは不思議なことに気づいた。高校の修学旅行で横浜を訪れた際、港で一枚の写真を撮った。よく見てみると、その写真に背景として写っていたのは「あめりか丸」だったと分かった。
文協の小川理事は「同船者の集まりが二十七回も続き、こんなに盛り上がって、しかもこんな立派な式典まである同船者会はそうはない」と何度も口にした。
こうして毎年同船者会が開かれることが、来年も元気な姿を見せようと生きる励みになるようだ。