4月29日(木)
日本語教育機関の一本化――。
ブラジル日本文化協会(上原幸啓会長)は国際交流基金の依頼を受け、八五年に旧日本語普及センターを設立した。
これに、日伯文化連盟日本語普及部、旧ブラジル日本語学校連合会が合併。八八年に独立して、正式に日本語普及センター(CENTRO DE ESTUDOS DA LINGUA JAPONESA、現ブラジル日本語センター)が発足した。
三者三様の理念を持っていた上、事業団(現国際協力機構)、基金の思惑も絡んで統一までに三年を要した。「日本語教育界で最大の出来事」と『ブラジル日本移民八十年史』は位置付けている。
同センターで開発した初のテキストが『一、二、三、にほんごで はなしましょう』(全三巻)。今なお、コロニアで使われている。
『インファンチウ(Infantil)』と『ジュウヴェニウ(JUVENIL)』を分ける必要はない―。そんな発想から八六年に、二冊を一冊にまとめたもの。その後、中級用の『ジャカランダ』、『イペー』(上下二巻)、『パイネイラ』(同上)に続いていく。
『一、二、三―』の改訂版の刊行、練習張がそろって今の形になるまでには、二転三転。かなりの難産だった。
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編集に当たったのは高橋都美子さん(アクリマソン学園長)ら主に、旧日本語普及会のメンバーだった。普及センター発足後、新たに立ち上げられた絵カード・グループやレクリエーション・グループが協力。教科書編纂委員会を組織した。
挨拶、買物、旅行など様々な場面を挿絵で示して、会話指導を展開するようレイアウトされた。授業後に一人で復習できるように配慮。会話内容を各ページの下段に記した。
旧国際協力事業団派遣の専門家から待ったがかかった。「会話ではなく、文字中心の授業になる恐れがある」。中級用に取り掛かるところだったが、改訂版をつくることになってしまった。
八〇年代末には、学習者数が伸びており、八九年に二万二千人を記録。年齢、習得度の異なる子供が同時に学ぶ複式授業から一斉授業への切り替えが叫ばれていた。それに伴って、教科書も変化しなければならないと考えられた。
「(文章を入れるか入れないかで)専門家の方と半年くらい喧嘩をしました」と高橋さん。「私みたいなのがいるからダメなんだ、なんて言われたこともあります」と苦笑いを見せる。
教員側が妥協、挿絵のみでテキストを組み立てることになった。
だが、現場は複式授業から、抜け出せなかった。その結果、改訂版は「使いにくい」と不評を買うことになり、編纂委員会は再度、振り出しに戻されることになったのだ。
試行錯誤の末、練習張を付けることで一応の解決をみた。だが、教科書と練習張合わせて四十レアル。ちょっと割高になり、期待通りに普及させることは出来なかった。つづく。 (古杉征己記者)