4月30日(金)
日本語を論理的にみる――。
一九七二年には、学習者の世代別構成について、二世(三〇・七%)と三世(六三・五%)が逆転。四世(三・四%)、非日系人(一・五%)が新たな要素として加わってきた。
会話が理解出来るという前提でつくられたコロニア版『日本語』は現場にそぐわなくなり、国語教育から日本語教育への転換が求められる時代を迎えていた。
日本語に関する初めてのシンポジウム「日本語と日本文化の伝承」(一九七八)では、言葉の体系やきまりを説明できるようなテキストの必要が確認された。
七〇年代と言えば、日本が高度成長を続けた時期でもあった。ブラジルへの企業進出も盛んで、日本語の需要が増した。
花田ルイス日伯文化連盟元事務局長は「アメリカやヨーロッパを見ていた目が日本に向けられた時代。日本への留学が大きな目標とされました」と世相を語る。
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日伯文化普及会(Alianca Cultural Brasil-Japao、現日伯文化連盟)は、サンパウロ四百年祭の日本人協力会を母胎にして五六年に産声を上げた。
文字通り、両国文化の交流と進展を目指し、語学や文学講座の開設、講演会の実施、奨学金の交付など様々な事業を展開した。
創立時の会員約四百七十人のうち、七割が非日系人。残り三割の日系人の中でも二世が圧倒的多数を占めた。
ここでは成人になって日本語を学び始める層が多かった。現場では、早い段階で、日本語は外国語として教えなければならないという認識が持たれていた。
もともと、国際学友会(日本)編の教科書を利用していた。七〇年代に入って、ブラジルに合った教科書づくりに向けて熱が高まり、『CURSO BASICO DE JAPONES(日本語初級)』(全六巻)に結実する。
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叩き台をつくったのは、鈴木妙さん(仏・マルク・ブロック大学客員教授)をはじめとするサンパウロ大学日本文化研究所のスタッフたち。
文型や語彙を広く拾い上げ、プリント形式にして試験的に使用。調整した上で書籍にまとめた。日文連で製本した初めての教科書だったという。
栗原渡辺章子さん(日文連講師)は「大学の研究者たちが作成したので、最初に出来たものは内容がかなり高度でした。それで、日常生活に合うように語彙をやさしくしたんですよ」と裏話を明かす。
文型を積み重ねていくように配慮し、ポルトガル語の対訳をつける。日伯両語の語順の違いなど文法的なこともきちんと説明。モデル会話や作文練習も取り入れた。
栗原さんは「四技能(読解、聴解、会話、作文)を総合的に伸ばすために、適した教科書」と自信を持って薦める。
挿絵がひとつも入っておらず、全ページが文字でびっしり。堅苦しい印象を与えてしまうのが欠点だろう。「日本語を本格的に学ぶ人向け」だ。若手教師の評判は高く、広く使われる教科書のひとつになった。
改訂版の『NOVO CURSO BASICO DE JAPONES(新日本語初級)』が一九九七年に刊行。日文連の中心的な教材として、活用されている。つづく。
(古杉征己記者)