5月1日(土)
「日本語教育が最も動いた時期ではないだろうか。言わば激動の時代です」
丹羽義和ブラジル日本語センター事務局長は九〇年代をそう、位置付ける。
九三年に一万八千六百人いた日本語学習者は、九八年に一万七千六百人に減った。非日系人の層が堅調を維持した一方で、日系の学習者は一万七千人から一万三千人に四千人ほど減少。同年代半ばには、実感として教師に伝わってきた。
さらに、留学、アニメ・マンガ、日本文化への関心など学習動機が多様化。現場は新しい対応を迫られ始めた。
その結果、熾烈な生存競争が発生、学校の淘汰が進んだ。閉校してしまう学校が毎年、かなりの数に上るのに、全体の数自体は横ばいだというあたりに、状況の複雑さがうかがえる。
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ひまわり学園(ジャグアレ区、生徒数九十五人)は私塾の中で、トップクラスの規模を誇る。不安定な時代に、うまく波に乗った学校のひとつだ。今年中に、百人を突破する勢い。
佐藤吉洸学園長は経営戦略に知恵を絞り、ひとつの結論を導き出した。「楽しく勉強出来るような環境を整えることが最も大切だ」。
電球の取り替えや壁の塗り替え、テレビの更新…。毎年必ず、設備を拡充してきた。「子供は何か新しいものがあると、すぐに気がついて喜ぶもの」だからだ。
保護者の参加を促すために父兄会を組織。運動会、ピクニック、バザーなど年間行事を企画している。
「愛着を持ってもらえたら、生徒が大人になって結婚、その子供がまた、学校に入学してくることだってあり得ます」
流行にも敏感。アニメ・ピカチュウに登場する怪物をカタカナの教材として利用したこともあるそうだ。
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「日系人だから、日本語を学びなさい」。日系子女の大半は従来、両親の希望で日本語学校に通った。学校側にすれば、〃固定客〃が存在していたわけ。それが乱立にもつながった。
デカセギや少子化の影響で、九〇年代初め、各地の日系コロニアは空洞化した。だが、日本文化への興味などを目的にした新たな層が増大。学習者の減少を補った分もあるため、〃固定客〃の変化を見えにくくしてしまった。
新たな層は不安定なため、時々の経済状況に大きく影響を受けた。丹羽事務局長は「教師の危機感が一気に吹き出たのが九五年ぐらいだった」とみる。
「日本語の話せない子供が増えている」
そんな言葉は六〇年代後半にも、聞かれた。当時は生徒と日本語との接点はまだ、かなり残っていた。だから、「国語教育でも間に合う面があった」(丹羽事務局長)。
九〇年代は、日本語をゼロからスタートするということを意味。ポルトガル語できちんと文法的な説明をすることが求められた。
「外国語として日本語を教育すること」が不可欠な時代になったのだ。
九五年、日本語シンポジウム、「ブラジルにおける21世紀の日本語を考える」(旧日本語普及センター主催)が開かれた。一世教師の役割は終わった、とさえ言われた。つづく。 (古杉征己記者)