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笠戸丸移民が配耕されたフロレスタ農場を調査=「夜逃げしたのは恥でない」=大場さん梅田さん=歴史として残したい=歯科医の金城山戸も働いた

5月26日(水)

 一九〇八年六月十八日、サントス港に着いた第一回笠戸丸移民は六ヵ所のコーヒー農場に配耕された。そのうちの一つフロレスタ農場(イトゥー市)はこれまでほとんど注目されたことがなかったが、インダイアトゥーバ市在住の大場実さん(八四)と梅田明男さん(六二)が存在を確認、現在も調査を進めている。
 同農場には、「通訳五人男」の一人、大野基尚と沖縄県人二十三家族百七十三人が配耕された。沖縄県人代表の城間真次郎や、博打打ちのイッパチこと儀保蒲太と、その友人で歯科医の金城山戸らも最初はここで働いた。
 六ヵ月の契約だったが、負債として日本に残してきた渡航費を年内に返済しようと農場を逃げ出すものが後を断たなかったという。一八七〇年頃に建てられた旧農場主宅は、現在も当時の面影を残している。
 梅田明男さんは、一九四一年バストス生まれの二世。
 大場実さんは静岡県出身。一九三四年、十五歳の時らぷらた丸で来伯した。大場さんは三十年前に読んだ『ブラジルの日系人』(角田房子著、潮選書)で同農場の存在を知る。
 十年前インダイアトゥーバ市に引っ越してきた際イタイシ駅の跡を見て、同著の中の「(主人公は)イトゥエンセ線イトゥー駅管内のフロレスタ耕地に入った」との記述を思い出し、「この線路を通って移民たちが来たのだなぁ」と感慨にふけり、「フロレスタに行ってみたい」という思いを抱くようになった。親友の梅田さんに相談を持ちかけて二〇〇二年十二月に存在をその目で確認した。
 二人は調査を始めてからこれまで、同農場で働いていたと言う人やその知人には一度も出会っていない。
 大庭さんは二、三年前、孫達に「移民として渡ってきたおじいさんのことを何も知らない。説明してくれ」とせがまれた。自分がブラジルに来た理由や失敗などを話しているうち、「コロニアのみんなの人生を、良いことも悪いことも含めて歴史として残していかなければ」と感じたという。
 大場さんは、同農場の存在がこれだけ知られていないのは「逃げ出したことを恥だと思って子供や孫にも農場のことを話せなかったからなのでは」考えている。「逃げ出したことはちっとも恥ずかしくない。貧乏も失敗も歴史に残すことが自分たちの義務。自分たちが死んだら歴史は消えてしまう」と力をこめた。
 また梅田さんは当時の農場主宅を訪れて「手枷や足枷が残っていることなどから、移民たちは奴隷扱いをされていたのではないか」「農場主宅は、笠戸丸より前にブラジルにやってきた日本人によって建てられたのではないか」などとこれまで明らかにされている日本人移民の足跡になかった独自の推測をしており、「フロレスタについての小説を書いて百年祭の役に立ちたい。いずれは農場主宅を買い取って歴史博物館としたい」と同農場に関する様々な構想を語っている。