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教科書 時代を映して変遷=連載後に=『にっぽんご』翻訳余話=田中さんらボランティア活動

5月26日(水)

 旧日伯文化普及会の教科書刊行委員会(第一期)は五九年に設立され、コロニア向け日本語教科書『にっぽんご』の編集に乗り出した。行政の認可を受けるため、ポルトガル語に翻訳。交渉翻訳人のジョゼ・サンターナさんを通じて、サンパウロ州学務局に提出された。実際に本作業に携わったのは田中洋典さん(二世、七二)と曽根原敏夫(二世、六九)さんの二人。ボランティアでの協力だった。連載記事を読んだといって、田中さんから連絡が入った。翻訳にまつわる裏話などを聞いてみた。
 二人はサンパウロ大学(USP)建築科の同級生。入学したのは五七年だった。当時、「エリートの間で日本ブームが起き始めたころ」で、大学で日本文化週間が企画された。
 田中さんは、日系団体との橋渡し役を任され、ブラジル日本文化協会の藤井卓治事務局長(当時)と懇意になった。同事務局長は第一期教科書刊行委員会の事務局長に就任。『にっぽんご』一~八巻までの翻訳話を田中さんに持ち込んだ。 曽根原さんはアルモニア学生寮に寄宿。編集委員の二木秀人氏(同寮職員)に声を掛けられた。
 「一カ月ぐらいでやってほしい」。藤井さんからの要求は結構、きついものだった。「世話になったから、お返ししようか」との素朴な思いから、仕事を引き受けることにした。
 二人は文協に寝泊まりして、朝から晩まで、机に向かったという。文協が毛布、マットなどを提供したほか、食費も全額、支給した。
 田中さんは「当時、文協はリベルダーデ広場のビルに入居していました。同じビル内に、日本食レストランが営業していて、よく食べにいったもんです」と懐かしむ。
 二人は松竹や東宝の日本映画にポルトガル語の字幕をつけていたこともあり、翻訳自体は苦にならなかった。
 「『山』と言っても、モンターニャなのか、セーラなのか分からないし、おむすびを言い表す単語は、ポルトガル語にないでしょう」
 ひとつの言葉を選ぶのに一日費やすこともあったという。
 原稿は交渉翻訳人の手を経たうえで、提出しなければならないということで、サンターナさんの校正を受けることになった。三分の一に「赤」が入ったという。
 田中さんは「直さないでもよいような箇所も手を入れられてね」と表情をしかめる。サンターナさんに難解な漢字の読み方を尋ねられて、答えられなかったら、揶揄されたこともあったそう。 
 学務局との折衝もかなり、難航。書類が足りないなどといって様々な注文をつけられ、何度も往復させられた。当局の許可が下りて、頒布にこぎつけたのは六三年十一月のこと。日本語の原稿が六一年四月に完成してから、二年七カ月の月日が経っていた。 
 手当なしで、働いたことについて、田中さんは「日系社会に何か役に立ていれば幸いです」と控えめに話す。同氏は以後、汎スザノ文協会長、広島県人会会長、救済会理事など数々の公職に就いた。