6月5日(土)
邦人初の宣教師をサント(聖人)に──。故中村長八ドミンゴス神父(一八六五─一九四〇)を列副しようという運動が日伯両国で熱を帯びている。同神父は外務省の要請によって、一九二三年にブラジルに移住。ボツカツを経て、アウヴァレス・マッシャード市(サンパウロから五百六十キロ)近郊に落ち着き、初期移民の布教に力を注いだ。当時は交通手段も発達しておらず、主に馬と徒歩で移動。数家族の日系信徒のため、マット・グロッソ・ド・スル州まで足を伸ばしたという。既に、バチカンに申請済み。異議が出されなかったら、審議検討に入る見込みだ。認定されれば、ブラジル日本移民で初の聖人が誕生することになる。
中村神父はアウヴァレス・マッシャード市営墓地に埋葬されている。死後六十年以上経っても、命日の三月十四日には、巡礼者が後を絶たない。
資料館、「中村神父調査センター」(平田春夫館長)が九一年にオープン。同神父の使用した家具や食器のほか、書籍など二百点が展示されている。
日本から帰国したブラジル人神父の勧めで、同市のサンジョゼ教会が主導。九六年、列副調査のための委員会(セルジオ・アントニオ・ボニニ委員長)が設立された。
日伯司牧協会を初め、各地の教会が後押し。プレジデンテ・プルデンテ、バウルー、アシスなど八カ所の大司教から推薦状を取り付けた。
しかし、日本側で書類を揃えるのに苦労した。来伯前、中村神父は九州地方を管轄した長崎教区に所属。奄美大島で布教していた。長崎への原爆投下で、貴重な資料が焼失してしまったからだ。
同委員会会計を担当する平田館長は「一時は、途方に暮れることもありました」と漏らす。幸い、中村神父に洗礼を受けた信徒がかなり、健在であったため、証言をとることが出来た。
必要書類は二年ほど前に、バチカンに提出された。審議検討などのため、まだ、相当な時間がかかりそうだ。平田館長は「夢が実現するために、みんなが祈りを捧げています」と話している。
中村神父は長崎県下五島(現福江市)生まれ。日系カトリック信者の精神的な指導に当たるため、二三年、五十八歳でブラジルに移住。まず、ボツカツの司教館に入って、日本人植民地を探し歩いた。
移住地は鉄道沿線から遠く離れた原始林の中にあり、徒歩か馬で移動。野宿することもあった。約十年後にアウヴァレス・マッシャードに移り住み、ノッサ・セニォーラ・ダ・アスンソン教会を建築。亡くなるまで、同地で過ごした。 遺体は当初、日本人墓地に埋葬される予定だった。非日系人への宣教にも功績が大きいという市の依頼で市営墓地に葬られた。