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ネクタイ外し経済談義=商議所=「二世成功者に聞く会」=進出、地場企業の交流の場に

6月18日(金)

  ブラジル日本商工会議所(田中信会頭)の「二世成功経営者の話を聞く会」が早くも評判だ。進出企業と日系地場企業の交流を深めようと始まった企画で、前回第一回はブルーツリーホテルグループの青木智栄子社長が講演し反響を呼んだ。ビールで歓談、打ち解けたところで「話を聞く」、そんなスタイルの気軽さが受けているようだ。

 会議所の平田藤義事務局長は「変化の激しいブラジルでどのように成功を収めたか。進出企業の関係者としては日系経営者の経験談に関心があるのでは」と人気の秘密を分析する。
 十六日の第二回「聞く会」にはサンスイの本田剛社長を講師に迎えた。開始時刻の午後六時前から会議所会議室には会員企業関係者が集い出し、三十人以上でにぎわった。
 企画するのは企業経営活動委員会。委員長は東洋紡の清水徹社長が務める。今後のスケジュールは未定だが、講演者にはさくら醤油や前田農場といった地場企業の経営者が候補として挙がっている。
 本田さんは八八年からサンスイ社長。就任後欠かさない日課は「昼食後の工場内の一人歩き散歩で、気軽に従業員に声をかけるし、相手も応じてくれる」と話を切り出した。
 「私は堅苦しいことが苦手。だれとでも気軽に話をするのが好きだし、話してると互いに分かってくるしメリットが大きい」
 「月曜日には私とオペラリオは朝食を一緒にします。彼らと話をすることで会社の全体像が見えるので、この朝食会は続けていきたい」と屈託なく笑う。
 幹部会議する際には、部長や課長まで参加させる。「部課長が実際の指揮官。彼らに直接参加してもらい、会社の方向性の確認と、彼らが船長役を担っている自覚をもってもらいたい」からだ。
 十年前の苦い思い出話も。「二千五百人の従業員を八百五十人に減らすドラスチックなリストラを断行した。心を鬼にして会社の存続の可能性だけを考える毎日でした」と回想した。
 続いて、サンスイの発展史についての話題に。
 六六年、四人の移住者と日系人によって設立。日本から機械設備や材料をすべて輸入、農業用抗圧ホースから生産を開始した。今日も、南米市長でPVCの柔軟圧延板製造のリーダー的地位を維持している。社訓は、商品開発にパイオニア性を持たせること、そして企業経営の革新(イノヴェーション)。
 三十八年の歴史で、八回の通貨変更と六回の大きな経済プラン変更があったが、これに適応するために高い代償と困難を払って来たというが、「かえって企業体力がついた」と振り返った。
 七〇年代初頭、PVCの合維シート製造で飛躍的に成長。現在七〇%の国内シェアを占める。七四年に日本のトーカツ・インダストリーとの合弁で、PVCとポリエチレンの強化パイプ製造目的にカナフレックス社を設立。ブラジル銀行、バンコ・ド・ノルデステやバイーア州開発銀行など金融機関の協力が発展の基礎を後押し。「ブラジルの奇跡」といわれた経済成長も追い風になった。
 対照的に、その後八〇年代はクルザード・プラン破綻による危機、国際信用を悪化させたモラトリアム宣言などブラジル経済は混乱を極めた。「失われた十年」、ブラジル経済の停滞期だ。だがサンスイは株式公開と、輸出強化に踏み切る。ペドロキーザ社とペトロブラス関連会社の協力で二千万ドルの輸出が成立したのもこの時代だ。
 九〇年代はコーロル大統領の経済プランの破綻。サンスイの売り上げは七〇%の落ち込みを示す月もあり、給料遅配を創業以来初めて余儀なくされた。借入金は売り上げの約二倍に膨れ上がった。そこで財政リストラ・プランを立て、債権者に提出。十年賦払い条件で協定を取り付けた。この事実が市場に知れ渡り、サンスイの評価は上昇、顧客やサプライヤーの信用を得たという。
 九〇年代、経営に苦しんでいた真っ只中。債権者の一人でもあった金融機関の常任理事から激励された。その言葉を本田社長はいまも忘れない。
 「家は崩壊した。ただし土台がしっかりしているから、君は立て直すことができる」。
 その後の会社の歩みは現在の姿が物語っている。