6月30日(水)
感無量です――。二十八年前にパラグアイへ移住した時には、小泉首相と握手しながら写真を撮るようになるとは、想像も出来なかった。
「平凡な一移民です。日本の選挙に出ると言った時、百二十人に聞いたら百二十人ともに不可能だと言われました。みんなに眉唾モノだと思われていたのが、自民党の公認を取れたなんて、まさに奇跡物語のようです」
七月に行われる参議院選挙に立候補した高倉道男さん(63、大分県出身、立候補名=ミチオ高倉)。ここまで来るのに三年越しの粘り腰が必要だった。二〇〇一年七月に衆議院選挙に立候補すると宣言し、アスンシオン市の土地を売り払い、それを資金に同年十一月、地元大分県に選挙事務所を開設した。
以来、四回も来伯し、協力者と協議を重ねた。東洋人街で夜、友人らと杯を交わしながら「お前はドンキホーテだ」と言われたことも一度や二度ではなかった。土地を売った金も飛ぶように無くなり、〇二年八月に選挙事務所を閉鎖せざるをえなかった。
何度も挫けそうになった。色々な人から受けたアドバイスを参考に、参院選に乗りかえた。「このまま出なかったら嘘をついたことになる。ケジメをつけなくては」と決心し、所有するペンソンの土地建物を担保に入れて銀行から金をかり、今年二月二十五日に東京へ行った。「公認されるかどうか分らないような人間には、銀行以外、ビタ一文貸す人はいないですよ」。
「あの時は、自民党の公認が取れなかったら、オートバイに白旗立てて日本中を行脚しようと思っていました。例え無所属の泡沫候補と言われても」。二月から公認申請の交渉を始め、認められたのは五月二十日だった。その間、国会議員会館に毎日通い、お願いに回ったという。
二十七日のリベルダーデでの遊説は、日本の主要マスコミが総出で取材合戦を繰り広げた。
「まさか、ここまで来れるとは思ってもいませんでした」。邦字紙社長、海外日系新聞放送協会元会長などの肩書きはあるが、要は一介の戦後移民だ。泣いても笑っても来月十日に選挙活動は終了し、翌十一日の開票を待つのみとなる。この一戦後移民の試みは「ドンキホーテ」で終わるのか、それとも「瓢箪からコマ」となるだろうか。