7月28日(水)
辻移民協定(一九五一年七月)によって、ポルトベーリョ市(RO)から約十五キロのバテエスタカ川流域に移住した「グヮポレ移民」が今月二十二日、入植五十周年を迎えた。熊本、東京など全国十都道府県から二十九家族が渡り、ゴムの栽培に従事した。ほぼ赤道直下での過酷な労働。風土病マラリアにも襲われ、多くが耕地を去って行った。栄養失調に悩む移住者の姿から、「幽霊植民地」とさえ言われた。半世紀後の今、それぞれが生活基盤を確立。苦難の時代を懐かしい思い出として語り合えるようになった。入植五十周年祭にはサンパウロ、ベレーン、マナウスなど全国からグヮポレ出身者が〃里帰り〃。開拓先没者の冥福を祈った。
ベレーン(PA)から四千三百九十七キロ。ポルトベーリョは、アマゾン川最大の支流マデイラ川に面した町だ。五四年当時の蒸気船でベレーンから、十五日を要した。
「とんでもない所に来てしまった」。上陸直後の印象を尋ねたら、大半がそう後悔した。まさに、〃陸の孤島〃と呼ぶにふさわしい辺境の地だった。神戸を出港したときは三十世帯だったが、一世帯がベレーンで上陸を拒否している。
ポルトベーリョは二十世紀の初め、ゴムの集積地として栄えた。人口はまだ、数万人そこそこ。街路も舗装はされていなかった。ペルーから逃れてきた移民を除くと、初めての日本人移住者だということから、多くのブラジル人が桟橋に見に集まってきたという。
「トレーゼ・デ・セテンブロ」。アマゾナス、マットグロッソ州のそれぞれ一部ずつが合併、グヮポレ直轄州が誕生したのが九月十三日であることから、植民地はそう呼ばれている。
受け入れ準備が遅れたため、割り当て面積(三十町歩)の一部伐木はおろか合宿所すら未完成。入植者は原始林の伐採から仕事を始めた。〃緑の地獄〃はマラリアの巣窟でもあった。
「旧海協連派遣の巡回医師に、『ここに薬はいらない。栄養剤が必要です』と言われました」とは、村山惟元さん(72、西部アマゾン日伯協会会長)=マナウス市=。
ゴムで収入を得るまで植え付けから七年かかるため、陸稲、トウモロコシ、野菜類を間作して当座を凌いだ。干し肉など現地の食事になかなか慣れず、女性たちは日々の食材を集めるのに頭を痛めた。もちろん電気もガスもなかった。
須藤忠志さん(71、汎アマゾニア日伯協会第一副会長)=ベレーン=は「要は栄養失調。マカホンが一番のご馳走でした」。
一方、ジャングルは子供たちにとって恰好の遊び場。田辺俊介さん(56、自治会会計監査)は「木のつるに掴まって、ターザンといって面白がっていました」と懐かしむ。
慰霊祭は二十二日午前九時から、生長の家ポルトベーリョ教化支部会館で営まれた。参列者約五十人は、志半ばで倒れた開拓先没者たちを追悼。在りし日の姿を偲んだ。高橋勇マナウス総領事も出席、移住者に敬意を表していた。
入植地は酸性土壌のため農業には不向き。ゴムは期待通りに育たず、適作物を見出すのが最大の課題だった。養鶏を取り入れたことで、コロニアは七〇年代に発展期を迎えることになる。が、それもつかの間で終わってしまう。
ブラジリアやサンパウロまでの道路が整備され、南より新鮮な野菜や卵が市場に入ってくるようになったからだ。競合の中で農業を諦めた人も少なくない。現在、コロニアに留まっているのは、五家族。うち二家族が農業に従事している。
記念祝賀会は同日午後七時から、グヮポレ出身者の一人山口宣行さん(81、熊本県出身)が創業したレストラン三好で行われた。入植者の家族ら約二百人が出席。涙を浮かべて再会を喜ぶ人の姿も見られた。
黒田倉造元文協会長(69、熊本県出身)は「ここに入ったのは宿命みたいなもの。住めば都です」と感慨深げに話す。
松野克彦文協会長(65、大分県出身)は祝賀会のあいさつで、「奥アマゾンの開拓に努力を重ねてきました。その子弟は多方面で活躍しています。その記録を残したいということで五十周年に、記念誌を刊行しました」と半世紀を振り返った。
「忘れ得ぬ開拓の友あり トレーゼは ゴムの花咲く心のふるさと」。出席者たちは四十周年に建立した記念碑の碑文を改めて、実感した。