7月30日(金)
アマゾン川最大の支流マデイラ川。十八世紀初めの探検家メーロ・パリェータ(葡)は、夥しい数の流木をみて思わず叫んだという。「死の川、マデイラ」。浸食された川岸から次々と木々が流れ出し、新天地に踏み込んできたポルトガル人を寄せ付けなかった。時代は降って、一九五四年七月。蒸気船リオ・タパジョス号に乗って、この川を遡っていく日本人移民二十九家族の姿があった。目的地は、ポルトベーリョ市郊外のグヮポレ植民地(テレーゼ・デ・セテンブロ)。戦後復興期の日本を去り、ゴム栽培に夢を託した。過酷な労働やマラリアへの感染などから、脱耕者が後を絶たなかった。それから半世紀。「グヮポレ」は入植者にとって、どんな意味を持つのだろうか。そして、今は──。
今月二十二日。午前九時前だというのに、気温は三十度近い。ここポルトベーリョは南緯九度。熱帯の日差しが、じりじりと肌を焦がしそうだ。
全国に散らばったグヮポレ移民たちが、三々五々とと生長の家ポルトベーリョ教化支部会館に姿を表わしてきた。開拓先没者を供養するために、里帰りをしたのだ。
節目の年の祝いはこれまで主に、植民地の会館で実施されてきた。五十周年の今年、慰霊祭、記念祝賀会ともに会場は市内に移された。コロニアは既に、遠い存在になってしまったのだろうか─。そう勘ぐってしまった。
実は「グヮポレ」の大きな特徴は、生長の家の信者が大半を占めていること。教化支部会館は〃お寺〃の役割を果たしているのだ。
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寺もなければ、坊さんもいない。マナウスから呼ぶにしても、金がない。
原始林開拓の生活で、入植者は死者をともらうのに困った。「僕が引き受けます」。松野浩生さん(故人、大分県出身)が僧侶役を買って出た。日本で生長の家地方講師だった経験を生かしたのだ。
葬式や盆の供養を重ねるうちに、いつしか生長の家がコロニアに根付いていった。信仰を持つということは、精神的な支えにもなったという。
松野さんは毎月、サンパウロからポルトガル語版の機関紙を自費で購入して無料で配布。通訳を付けて、一般向けに講演会も企画するようなる。
「献本運動」が、教化支部の基礎をつくった。同支部には現在、さらに二十一の支部が存在。会員、一般信者、共鳴者を合わせると約五千人に上る。
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サンパウロ市ジャバクアラ区の生長の家ブラジル伝道本部別館。ここに日本語版機関紙「圓環」の編集部がある。月刊で、発行部数は七千部。文書による布教を重視する生長の家にとって、組織の要の一つだ。
編集部部長は門脇和男さん(70、山形県出身)。グヮポレ移民の一人だ。「一日中、働き通しですよ」。取材、編集のほか講演会での講師も任されるなど、毎日が過密スケジュールだという。
旧姓は舟山といった。農家の次男に生まれ、二十歳の時移住を決意。故門脇勝治さんの構成家族に入った。「とにかく夢中でした」。奥アマゾンの開拓は、想像を絶する仕事だった。
「耕地は酸性土壌で農業には向かない土地で、野菜や陸稲を栽培しても家族が食べる量すら収穫出来なかった」
門脇さんは経済的に行き詰まって、妻みどりさん(68)と軍用機に乗ってサンパウロに出た。入植から四年後のことだった。
木工所の従業員、魚の行商、化粧品の販売員など職を次から次に変えた。三十二歳の時、生長の家に出会い入信した。実はみどりさんは、松野さんの長女。教えを再評価出来たのだ。
「十代のときから、人間は何のために生きているのか悩んできた。その答えをもらった」と門脇さん。伝道本部理事や南米練成道場総務などに就任。今は、「圓環」編集部部長の重職にある。
「七十年の人生の中で、グヮポレの四年間は色あせない思い出。命懸けで夢に挑み、完全燃焼しました。結果がどうであれ、悔いは残っていません」。(つづく、古杉征己記者)