7月31日(土)
ほぼ赤道直下での過酷な労働、猛威を振るう風土病マラリア。それに栄養失調も加わり、入植者は痩せ頬がこけた。「幽霊植民地」。旧海外協会連合会の派遣で同地を訪れた医師神田錬蔵氏は、皮肉のきつい綽名を付けた。
「この人たちの抗マラリア剤の飲み方はめちゃくちゃで、熱が出たからといってちょっと飲んで、熱が下がるとそのままもう飲まない。そのためしばらくするとまた発熱する。抗マラリア剤も、副作用の強いカモキンやククロキンであった」(『アマゾン河』)
入植祭では酔いも手伝って、村山惟元さん(72、西部アマゾン日伯協会会長)=マナウス市=と須藤忠志さん(71、汎アマゾニア日伯協会第一副会長)=ベレーン=は苦難の時代を面白おかしく語っていた。
ムード・メーカーだったのだろう、二人の呼吸はピッタリで友情は昔も今も変わらない。村山さんは「やはり、ここが故郷ですよ」と感慨深げの様子だ。
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須藤さんは兄巌さん(故人)の構成家族で移住した。早大法学部四年で、既に産経新聞への就職が決まっていた。働き手に入ってほしいという兄の強い希望で、中退を決意。新世界に飛び込んだ。
「俺はこんなところで、何をやっているのだろう」。深夜切り株に座って南十字星を見上げて、そうつぶやいたのは一度や二度ではないという。
一方の村山さんは未開の地を前に、目を丸くした。「とんでもない所に来てしまった…」。収入は伸びず、携行したミシンなどを売って食料を手に入れた。現地の食事にも慣れず、空腹に悩んだ。
青年会が入植間もなく発足。相互扶助を目的に、農作業の遅れた家族に労働力を提供するなどした。これとは別に、「ウルブーの会」なる五~六人のグループが出来た。「酒のみ友達の集まりで、飲み会を重ねるうちにそんな名前になったんです」と村山さん。
妻や恋人の同伴が許されるかわりに、アルコールが無くなるまで席を立ってはならないというのが習慣だった。二人は肩を叩き合い、貧しいながらも青春を謳歌したそうだ。そんな〃竹馬の友〃にも別れが訪れた。
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須藤さんは五七年、村山さんは五八年にそれぞれ植民地を後にした。須藤さんは妻の実家を頼ってベレーンに移転。その後、辻合名会社を経て三井物産の現地法人に入社、取締役まで上り詰める。村山さんは旧海協連で指導員を務めた後、マナウス総領事館に就職。定年まで勤務した。
「どん底の暮らしを経験したので、少々のことでは驚きません」。須藤さんは、コロニアの生活がバネになったと話す。
五年後のアマゾン移住八十周年(二〇〇九年)。「移民百年祭(二〇〇八年)に、何かをする余裕はありません」(村山さん)と言い切れるほど、重要視されている行事だ。
それぞれ日系団体の中枢に身を置いている二人は、主催者の一人として動いていくことになる。いずれの地域でも世代交代は進行。若手を指導していく立場にある。
共同事業は今のところ、考えられていない。慶祝団の受け入れ時期などについて、意見を交わしていくという。九月に入植七十五周年を祝うベレーン。それが終わると、アマゾン地域の大イベントに向かって、二人の人生が再び交差する。つづく。(古杉征己記者)