8月3日(火)
服飾店、家電量販店、映画館…。ポルトベーリョの「九月七日通り」は日中、買い物に訪れた市民らで賑わっている。五日間の滞在中、この目抜き通りで日系人をみかけたのは、市営市場で働いていた二人だけだった。逆に、こちらに注がれる視線が痛いくらいだ。
ポルトベーリョの桟橋近くの公園を歩いていると、突如少女が近寄って声をかけてきた。「あなた、ボリビア人?」。思わず、答えに詰まった。入植者が上陸した時、多くの住民が桟橋に見にきたという話を裏書しているようだ。
グヮポレ移民のほか、二世、三世がサンパウロやパラナから赴任。日系人社会を形作っているものの、その存在はまだ珍しいのだろう。ただ政治家、医師、警部、技師といった社会的な地位のある人が際立ち、評価のほうはまずまずのようだ。
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「言葉が分からないので、結構不安だった。幸い町で最高クラスの病院に入ることができ、看護婦さんたちも親切にしてくれた」
コロニアで初めて出産したのは、山口美和子さん(80、熊本県出身)だ。妊娠七カ月で移民船に乗り込んだ。臨月を間近に控え、当局から上陸を拒否されるのではないかと気を揉んでの渡航だった。
長女マリーア・美由紀さん(49)は、入植から五十二日目の九月十二日に産声を上げた。日本人の子が生まれたという噂はたちまち町中に広まり、面会客が後を絶たなかったという。「列が出来たこともありました」と、美和子さんは懐かしむ。
サンパウロのコーヒー園で成功したブラジル移民の話を聞いて、夫宣行さん(82、熊本県出身)は海外移住に心が傾いた。当時日本経済が安定期に入ったとは言えない状態。「南米で一旗揚げたい」─。
しかし、植民地の現実を知って驚く。目の前には、ただ密林が広がっているのみ。実施要項の「マラリアは一掃されている」という記述も、うそだった。
原始林を伐り拓いてゴムを植樹。陸稲やマンジョッカを栽培して生活の足しにしようとしても、暮らし向きは改善しなかった。夫婦は、一生薪をたいて生活を送らなければならないと覚悟する。
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真綿色のテーブルクロス。花瓶にはバラの花が、品良く生けられていた。入植五十周年の記念祝賀会場になったレストラン三好は、さながら結婚式場のようだった。
このイベント会場だけで収容人数は二百人。向かいの本店もかなり規模は大きい。フロリアノポリス(SC)にもチェーン店が数軒あるという。
レストランの創業者は山口さんだ。コロニアでの農業に失望、六九年に市内で食堂を開けた。最初は三人による共同経営だったが、出資者二人が手を引き三年目に単独経営になった。「軌道に乗るまでの四~五年は辛抱の連続でした」
サービスの向上などに苦心して、徐々に増収増益基調に。暖簾も「東京食堂」から「オリエンテ」、そして「三好」と変わった。宣行さんは「最初は、セントロの小さな店だったんです」と人生の機微を感じている様子だ。
レストランの経営は子どもたちに任せ、山口さん夫婦は悠々自適の生活を送る。「(入植祭の)前日までジョアン・ペッソア(PB)にいました」と旅行を楽しむ余裕も生まれた。ポルトベーリョ店を切り盛りしているのは、グヮポレ移民二世第一号のマリーア・美由紀さんだ。
(つづく、古杉征己記者)