8月4日(水)
BR364号線が一九七四年に開通。ポルトベーリョ(RO)はブラジリア(DF)、サンパウロ(SP)などの都市と幹線道路で結ばれた。人と物の移動が容易になり、ロンドニア経済の起爆剤になった。交通網の発達は皮肉にも、コロニアを直撃する。
養鶏に活路を見出し胸を撫で下ろしたかと思えば、南から生鮮食品がどんどん市場に入ってくるようになったからだ。発展期を十分に堪能する暇もなかった。
「家族が泥まみれになって働くようなきつい仕事は、長く続かないと思っていました」。自治会(文協)会計監査の田辺俊介さん(56、鹿児島県出身)は早い段階から、農業に限界を感じていた。
コロニアでの養鶏・果樹栽培と並行して、野菜や冷凍食品の卸業などにも手を広げた。ひょんなことから、八〇年代初めに浚渫船を所有。成り行き上、ガリンポ(金採掘)に乗り出すことになった。
この時期、ポルトベーリョは砂金景気に沸き、マラニョン、ピアウイ、マットグロッソ州などから約八万人が移り住んできた。現在市の人口が約四十万人だから、膨張の大きさがうかがえる。
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「毎日のように、死体が川に浮いていました。普通の神経では出来ません」。現場の凄絶さには、舌を巻いた。〃陣地〃の取り合いで撃ち合いになる上、クルテイラと呼ばれるガリンペイロの宿場も命の保証は無かった。
「感覚が麻痺してしまうのでしょう。ガリンペイロたちが、ピストルに銃弾を一発詰め込んで命を賭けているんです」。身の毛がよだつ思いをした。
「あなた、人間の目をしていない」。息子の危険を察した母の一言が、現実に引き戻してくれた。ガリンペイロとの分け前は四対六だった。船のメンテナンスなどに出費がかさみ、収支はとんとん。割に合わなかったという。
父信道さん(故人)は軍隊上がり。深夜三時ごろまで農作業に精を出していた働き者で、父の背中を超えることが大きな目標だった。さまざまな仕事の利益で、不動産に投資。今は家賃だけで生活、子供の教育費も十分に賄える状態だ。
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二世が中心になって九四年につくった、ニッケイ・クラブ。国際協力機構(JICA)が青年ボランティアを派遣。日本語学校(月謝二十レアル)の生徒数(現在約五十人)も増加傾向にある。田辺さんが自宅で無料の日本語教室をスタートさせたことが、そもそもの始まりだ。
同クラブは創立間もなく、諸般の事情で存続の危機に陥った。せっかくともした灯を消したくない一心で、教室を受け持った。授業がJICAに評価され、支援先として認められたのだ。「日本の学校を卒業していないので、子供たちと一緒に勉強していただけです」
六歳で移住した田辺さんは、コロニア内の学校を経て町で進学した。日本人だと冷かされ、毎日のように喧嘩を繰り返した。「登校時と同じ姿で下校をしたことはなかった」という。辛い思い出がいつも胸につかえていた。
「日本人はすばらしい民族だと思います。だから、ブラジル人にも文化を伝えることで、日本を知ってほしい」
コロニアの自治会と町のクラブ、一世と二世という世代のギャップ。クラブが文協と名乗った前身時代には、日本政府への助成金申請をめぐって両者の間に軋轢が生じたこともある。
コロニア出身の田辺さんがニッケイ・クラブに入り込んでいくことで、橋渡し役も担っている。
(つづく、古杉征己記者)