8月6日(金)
七月と言えば、ブラジルは冬。標高七百八十メートルのサンパウロ(SP)では、底冷えのする日もある。常夏の地ポルトベーリョ(RO)から戻って、まず身にしみたのが寒さだ。
〃商都〃を目指したグヮポレ移民も、同じような体験をしたのだろうか。いや、むしろ都会の世知辛さが堪えたのかもしれない。コロニアを去ったとは言え、蓄えが十分にあるわけではなかったのだから。
二〇〇二年十一月末。リベルダーデ区内のレストランで、コロニア出身者十数人が会食をした。五十年史の編集委員長栗山平四郎さん(67、東京都出身)が自治会(文協)から派遣され、動向調査などへの協力をねぎらったのだ。
サンパウロ在住者が一堂に顔を合わせたのは、初めてのこと。「やっと、思い出話を語る余裕が生まれたんです」と口を揃える。席上、トレーゼ(グヮポレ)出身者の集いを開いていくことが確認された。
竹中(旧姓北川)芳江さん(63、熊本県出身)、ロザナ・キミ(44)さん母子が主導。今年六月末に同じグヮポレ移民の丸力一郎(68、千葉県出身)さんが経営するレストラン(サンターナ区)で、一足早く節目の年を祝った。
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「正直言って、サンパウロで心を許せる人にほとんど出会わなかった」。栗山安敬さん(70、東京都出身)は、厳しい生存競争の中で必死に生きてきたという。
今でこそ、イベントやフェイラでブースなどの設計を手掛けるエピコ社の経営陣の一人だ。日系コロニアの外で生活してきただけに、人知れず涙を流したことも多い。
「雇用主と喧嘩をして勤務先を飛び出し、建設途中の建物にもぐりこんで一晩を過ごしたことがあります。あの夜は本当に寒かった」
吉野嘉一さん(70、大分県出身)は五八年に父剛さんをマラリアで亡くし、家族でサンパウロに転出することを決意した。日本で旧横浜正金銀行に勤務していた父が生前、旧東京銀行宛てに一筆書き残していたおかげで、嘉一さんの就職が叶った。
「アマゾンから猿が出てきたと笑われた。将棋の歩のように一歩一歩前に進めば、いずれは金になる。密林の中での苦労を思えば、どんなことでも乗り越えられると思った」
その後食料品店を持ったが、強盗に襲われるなど不運に見舞われた。最後は邦字紙の校正係りを約十六年やり、昨年四月に退職した。今は、俳句を詠むのが何よりの楽しみだ。
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博打に溺れる夫と薬物に手を出す息子。北川フサエさん(故人、熊本県出身)は生活環境を変えるため、奥アマゾンの開拓を志したという。内助の功を尽くしてつくった携行資金は、百万円。コロニアで最高額だった。
農業経験が無かったため、五七年に断念。サンパウロで落花生の販売から再出発した。まだ十歳になるかならないかの正三さん(56、宝石商)が、街頭に立つこともあった。
長女光子さん(69)は丸さんと結婚。母を追うようにコロニアを去った。「ここに来たものの、無一文でした」。夫婦は農協の職員や縫製業などを経験。現在はレストラのオーナーだ。「日本に二度ほど、デカセギに行きました」
仕事柄、入植祭(七月二十二日)に出席出来なかった。代わりに、正三さんと妻八重子さん(54)が〃帰省〃した。八重子さんは昔の姿のままで残る北川邸をみて、涙が止まらなかった。「舅姑さんの苦労が、よく分かりました」。 (つづく、古杉征己記者)