8月7日(土)
コロニアに入ってすぐ、墓地がひっそりとした佇まいを見せている。もともと日本人移住者のため、行政が用意したものだった。しだいに、地域住民もここに埋葬され始めた。
入植者二十九世帯のうち、半世紀後の今も植民地に留まっているのはわずか五世帯。ポルトベーリョは人口の割りに犯罪率が高く、農村地帯の生活も安全とは言えない。日系人宅に強盗が押し入ったこともあった。
〃墓守役〃を担うのは、自治会会長の松野克彦さん(65、大分県出身)。父浩生さん(故人)が入植当初、生長の家の方式で死者の供養をした。その遺志を受け継いだ。慰霊祭(七月二十二日)では祭司を務め、「甘露の法雨」を読誦した。
幼い頃から教職にあこがれ、高校、大学の志望校も決めていた。「校長は無理でも教頭にはなりたかった」。十五歳のとき、突如夢が絶たれた。ブラジルに移住することになったからだ。以来、学校には通っていない。
離農者が増えていく中でも、松野さんは耕地にこだわり続けた。「ここでやっていくと決めていたから、出ていく人をみて羨ましいとも思いませんでした」。意志の強さが幸い、アメリカ鶏のキンバー種を導入して、養鶏を本格化させた。
コロニア内に二ロッテ、六十町歩を所有。鶏は現在、一万羽ほどだ。植林にも力を入れている。「将来、製材用にでもなれば子供たちも助かるんじゃないかと思って始めたんです」
長男元彦さん(32)は長らく日本にデカセギにいっていたが、最近帰国。跡取息子への期待が高まっている。
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バテエスタカ川に沿って進むと、左手に二階建て(日本式)の邸宅が目に飛び込んできた。小高い丘の上に立地しているだけに、風通しは抜群。プールも付いていた。
門に入ると、門脇敏子さん(77、山形県出身)が、丁寧に出迎えてくれた。「出世頭の一人です」。自治会(文協)庶務の栗山平四郎さん(67、東京都出身)は、敬意を表す。
物静かで、上品な口ぶり。とても、原始林開拓を経験してきた印象は受けない。次々に去っていく入植者を横目に、じっと我慢して耕地に留まった敏子さん。苦闘の末に得た一家言を持っているのだろう。
電気もガスもなく、料理もままならない。朝食にパンが食べられるのは週に一回だけ。朝からマンジョッカを食べて、糊口を凌いだ。「何十年も昔に戻ったような気がして、がっかりした」。しかし、自殺する気は不思議と起こらなかった。
「帰りたくったって、帰るお金なんてないでしょう」。ホーム・シックにかかった敏子さんだが、ある時期から開き直ることさえ出来るようになった。日本語学校の教師になり、教壇に立った。子弟教育は、両親の反対を押し切って移住したことへの贖罪でもあったという。
一家はゴム栽培から養鶏へと、ほかの入植者たちと同じ道をたどる。二十年ほど前に、鶏肉やアイスクリームなど冷凍食品の卸業に手を出し、成功を収めた。
「旅行してここに戻ってくると、安心感が持てる。住めば都です」。夫勝治さんがコロニア内の墓地に埋葬されていることもあり、ほかの場所に移転するつもりはない。
「日本では最近、自殺する人が多いですね」。奥アマゾンのこの地でもNHKが受信できると、最後に話が盛り上がった。敏子さんは、母国の暗いニュースが気掛かりになってしかたがない。
「死にたいと思っている人たちをここに連れてきて私たちの苦労を聞かせたら、少しは生きる希望が生まれるかもしれません」。
(おわり、古杉征己記者)