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小野正さんの死を悲しみ惜しむ=清々しい気持になれる『アマゾン移民 少年の追憶』

8月19日(木)

 本紙連載中の小説『アマゾン移民 少年の追憶』の著者、小野正さんは,去る四日、コルネリオ・プロコピオ市で死去した。この作品に十年ほど前から注目、高く評価していた赤嶺尚由さん(ソールナッセンテ人材銀行代表)が、このほど「小野さんは続編の構想を温めていた」と明らかにし「移民百周年までに発表してほしかった」とその死を惜しんだ。以下は,追悼の文。
 Lavar Alma(ラヴァール アウマ)というポ語を少し無理して日本語に訳すると、「魂が洗われたように、とても清々しい気分になること」といった意味合いになるはずである。世の東西を問わず、絵空事みたいな小説の地盤沈下が言われて久しくなる今日この頃、読後感が爽快で、感動を与える作品に出会うことは、滅多になくなったが、本紙に連載されて四ヵ月近くになる小野正さんの「アマゾン移民 少年の追憶」は、そういったほとんど稀にしかお目にかかれなくなった感動的な珠玉の作品だ。
 小野さんの作品が自分史という形で最初に発表されてから、確かもう十年近くになる。今回、本紙に連載されて目にするのは、二度目ということになるが、最初の時と同じように、大変に新鮮な感じをもって、これまでずっと読み続けてきた。それは、多分、本紙の担当者が随所に大変ツボを心得た推敲の手を入れ、特に文章の結びの部分に整合性を持たせたことにより、作品自体がどことなく装いを新たに若返ってきた印象を与えるからでもある。
 また、日本移民百周年をもう目の前にして、移住そのものを出来るだけ多くの人たちが見詰め直して見るためにも、今回の本紙への連載は、極めてタイミングを心得た好企画だったように思える。
 最初に読んだ時もそうだったが、改めてびっくりしたのは、小野さんの記憶力の確かさである。初期のアマゾン開拓に入ったのは、小野さんが当時、まだ十五歳になるかならないかの少年時代で、この作品を書き始めた老境の頃との間には、ざっと六十年以上という大変気の遠くなるような歳月の隔たりがあったはずであるが、当時の入植者たちの不安そうな顔色の変化はもちろんのこと、アマゾンの森の深さと緑の色の鮮やかさや大小の河の流れ、などに至るまで綿密に描き切っている。
 今回の連載を読みながら、それは、どうしてだろうか、としきりに考えてきたが、結局、思い当たるのは、小野さんの家族愛、「一家の運命を激しく左右したアマゾンのことを少しでも忘れてはなるまい」という必死の思いからではなかっただろうか。
 小野さんは、そういう確かな記憶力を駆使して、いつも前向きに弱音を吐かずに、一家の柱みたいになって、生きようとする母親の後姿を追い、また、ブラジルに移住してきて日もまだ浅いというのに、日頃の懸命の努力が実り、生徒の総代として皆の前でポ語の挨拶をする幸(こう)姉さんとの姉弟愛などに焦点をあてながら、ともすれば単調になりがちな自分史の中にいくつかの山場を作っていく。
 猛烈な風土病に襲われて、一家も遠い南の方への転住を余儀なくされ、まずその前に必要な資金稼ぎをやろうということになり、小野正少年も、母親の気持ちを汲んで、兄の食事の世話をすべく、森の奥深い所へ伐木の請負作業へ一緒に出掛けて行かなければならなくなる場面もその一つだ。
 実は、この作品が最初に発表された後、パウリスタ新聞にやはり読後感を書かせてもらったことがあった。その中に「南への転地に取り敢えず必要な費用稼ぎのために、前後二回にわたって伐木の請負作業をする必要に迫られるが、最初の時の作業現場に正少年のさみしい気持ちを誰よりも一番よく理解し、『頑張れ、辛抱は自分のためなんだよ』と日頃から口癖のように言って励ましていた母親が弟二人を連れて陣中見舞いに来る様子と、いよいよ陽が傾きかけて三人が帰る時、正少年が伐り倒した大木の切り株によじ登って一人見送る情景が描かれていて、そのことがなぜか一番印象に残っている」と書いたが、それは、今回読んでも全く変らなかった。
 また、小野少年の記憶力の確かさを証明する具体的な例を、二回目の伐木請負に兄と二人で出掛けるところ(連載の五十二回目)から具体的に引用してみたい。
 「汗みどろになって山刀を振るってへとへとに疲れて小屋へ引き上げるとき、『なまけもの』と出会う事があります。『なまけものは』は、四、五才くらいの子供の大きさで、その名の通りに動作の鈍い獣です。丁度あのぬいぐるみの熊さんにそっくりで、顔はおかっぱで可愛いらしいのです。
 頭はぽんとたたくと「ぴいー」と悲しい声を出すのです。森(ヤマ)の中での和やかな気分になれるのは、この『なまけもの』と出会った時ぐらいでした。小屋に帰れば兄は道具を研ぎ、僕は飯を炊き、後は収容所まで歩いて泊まりにいくといった毎日でした」と、六十年以上もはるか以前のことを鮮やかに、ユーモアも湛えながら書いている。
 伝え聞くところによると、パラナ州コルネリオ・プロコピオ市に永く住む小野正さんは、ここ数年、体調を崩していて、何度か入退院を繰り返していたが、去る八月四日早朝、肺炎のために容態が急変して、八十四歳の生涯を立派に閉じたそうである。
 アマゾン移住で翻弄された一家が南の方へ転地して行ったその後のことを纏めた続編の構想も数年前から密かに温めてきていたが、それを何とか日本移民百周年までに発表していただいて、この初期アマゾン移民の家族愛の辿り行く先を是非読んでみたいと強く願っていた矢先のことであった。