9月1日(水)
【エスタード・デ・サンパウロ紙二十日】ニューヨーク市のイエシバ大学講堂で九月八日に開催されるブラジル・レムナント(残れる民)展へ出展するため、七トンの遺品がレシフェ港で船積みされた。
レシフェに在住したユダヤ人二十三家族が一六五四年、現在のニューヨーク、ニュー・アムステルダムに向かって出港した。ブラジルから米国へ再移住したユダヤ人二十三家族が、世界経済を支配する米国ユダヤ・コミュニティの草分けといわれる。
遺品の中にはブラジルの砂糖黄金時代を築いた初期日本人移民の砂糖園を攻撃し、キロンボ(奴隷の駆け込み寺)へ追放したオランダ軍の大砲や、砂糖園で使用されていたサトウキビ絞り機、日本人考案の真空式煮汁乾燥釜などがある。
ブラジルの首都は当時オリンダにあり、レシフェは小さな港町だった。ユダヤ人社会に残る歴史書『ブラジル・レムナント』によると、オリンダの全人口が一万人だったころ、日本人が二千人近く同地域の砂糖園に就労していたらしい。ユダヤ人は一千四百人、白人が二千八百人。ユダヤ人の再移住は、ブラジルの砂糖黄金時代が侵略によって崩壊した後とされる。
ユダヤ人の再移住と初期日本人移民とは、何らかの関係があったようだ。日本人の消息はオランダ軍の侵略でプッツリ切れるが、レムナントの歴史は今日まで連綿と続いている。遺品の中には十六世紀ブラジル・レムナントの生活を伺わせる芸術作品やシャンデリア、歴史的遺品などが多い。
「レムナント」ことユダヤ人はレシフェにユダヤ通りを形成し、旧市街のボン・ジェズス通りに当時の面影を残している。ポルトガルの宗教裁判から逃れたユダヤ人は、コミュニティを守るため義勇軍を編成した。それを物語る遺品が、オリンダに保管されていた。
マウリシオ・ナサウ伯爵の時代に、ようやく信教の自由が認められ、ユダヤ人は立派なシナゴーグを建てた。レシフェに架設された最初の大橋梁も、ユダヤ人の資金援助で行われた。キリスト教新教徒がカマラジーベに建設した砂糖工場も、ユダヤ人が出資した。
その他、ユダヤ人の資金援助で完成したサトウキビ農場や砂糖工場は多く、ブラジルの砂糖黄金時代を風靡した。ブラジルを知りたければ、レムナントの歴史を学べといわれる。ブラジルの砂糖黄金時代の終焉が、日本人移民の消息が途絶えた時期と一致しているのも奇縁だ。