9月7日(火)
金田氏との別れは、日本から帰ってから暫らくして、秋も深まりかけた日であった。
気分が良くないと電話が有り、直ぐに訪ねて行った。昨日、ワイフが届けた食事も半分残っていたので、少し心配になり、様態を聞いたが、金田氏はベッドに寝たままで、「胸が息苦しい感じで、起きあがれない」と話して、私が「病院に行きましょうか」と話すと、「近頃時々起きます。おさまらない時は、連れて行って下さい」と話した。その夜、私は金田氏のアパートに泊まった。
金田氏の隣りの、昔、奥さんが寝ていたベッドで寝ていた。
すると、「起きていますか。今、夢を見ていました。茂木の町で、小川の横の道を、私の妻や、両親、兄弟と、秋祭りの参拝に行く所でした。私だけが遅れて、幾ら歩いても、ついて行けずに目を覚ましました」。私はコップに水を入れて来ると、金田氏に少し飲ませた。
「落ち着きました、ありがとう。皆が迎えに来たみたいです。その様な感じがします。長い間、お世話になり、ありがとう。実の息子の様に世話してくれ、ありがとう」。そこまで言うと、私の手を握り、目を閉じて、静かになった。
私は、慌てて電話を取り、救急車を呼んだ。金田氏の手から、力が抜けて行くのが判った。何度も、金田氏の名前を呼んだ。呼びながら涙が溢れて、止まらなかった。
金田氏の葬儀は、しめやかに家族的雰囲気で行われた。沢山の友人が見送り、ホールには花が溢れ、彼の人柄が偲ばれた。
荼毘に送る前、私は彼のポケットに、テーブルにいつも飾ってあつた奥さんの写真と、弟が突入の最後に打つた電文用紙を入れた。そして、彼の胸の上には星条旗を掛け、赤いバラの花で埋め尽くした。
金田氏の、きちんと整理された簡素な部屋は、半日でかたずき、奥さんと金田氏の遺骨は、私の家に連れて来て仏壇に安置していた。
散骨の日は、良く晴れた日で、私と友人のボブが操縦するセスナで飛び立った。秋の柔らかい日の輝きに照らされながら飛行し、サンフランシスコの町の上を旋回してして、太平洋の海へ出た。青いキラキラ輝く海原がまぶしかった。
その時、ボブが指さして叫んだ。「あれは日航のジャンボ機だ!」
翼に日の丸の赤が確認でき、尾翼に鶴のマークがはっきりと見えた。
私は、夫妻の遺骨を入れたバッグを用意すると、弟が出撃の日に遺品として残したオルゴールを開けた。「サクラ、サクラ、ヤヨイノソラニ、ミワタスカギリーー」、奏でて、私は窓を開けて、一気に空中に散布した。そして、オルゴールも、霞みの様に、たなびく遺骨の中に投げ入れた。
日航機が消えたかなたに、一筋の飛行機雲が出来ていた。「さぁ、日本に帰りましょう」と誘う様であり、また「さぁ、ついておいで」と指差す様でもあった。
私はその時、白い鶴が飛んでいるのを見た。涙で曇る目には、白い浮雲が鶴の様に見えた。そして、浮雲は飛行機雲を追う様に、流れて行った。
(おわり)