9月22日(水)
ニッポン人のつくったうどんを、ニッポン語を聞きながら食べていると、懐かしい祖国のあこがれが連想され、胃袋が満たされるとともに、精神的な空腹もやわらげられるのだった――。一九二六年にコンデ街に誕生した簡易食堂「うどんや」について、アンドウ・ゼンパチは『移民と郷愁―ガルボン・ブエノ街を礼賛する―』(サンパウロ日本文化協会編『コロニア』四十四号)に記述している。
一世にとって、うどんは身近な食べものであり、日本への郷愁を癒すものだった。
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「一世はみんなうどん好き。うどんがブラジルから無くなることはないよ」。ガルボン・ブエノ街で食料品店を営む外山美佐尾さん(88)はいう。何の疑いもなく話す様子に、一世とうどんの切っても切り離すことのできない関係が窺える。
一九二八年に十二歳で来伯した美佐尾さん。五十年前には自分でうどんを作って食べていた。「私のうどんは和食ではないね。〃和洋折衷〃とでもいうか……」。
美佐尾さんの作るうどんは一風変わっている。だしを取るには普通、鰯やいりこなど魚の干物を使うが、牛肉でだしをとるのが美佐尾流だ。
脂身の少ない牛肉の塊を軟らかくなるまで炊いてだしを取る。醤油、粉末の本だし、砂糖などを加えてうどんつゆができる。
うどん粉を練った麺をゆでてつゆを注ぐ。ねぎやかまぼこ、揚げなどの具と一緒に、だしを取った牛肉に味付けをしてのせてもおいしい。
サンパウロ大学哲学、文学、人間科学部の森幸一教授(文学博士)は、初期の日本人移民について、「コンデ街の粗末な店で、うどん粉があり醤油があり、豚肉からだしをとってうどんが提供されていたのでは」と推測している。美佐尾流うどんも、初期の日本人移民が故郷を懐かしみながら食べたうどんの味と似ているのかもしれない。
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「日本食はやっぱり一世が食べてくれなきゃ」。あるレストランの主人は言う。ブラジルで長年暮らし、日本食を食べたくても食べることができなかった一世もいる。誰よりもまず、一世に日本食を提供したいと考えた。
他に日本料理を出す店が全くなかったわけではない。しかし、いわゆる大衆食堂はどこも広い部屋に大きな机を並べただけ。客は皆そそくさと食べて慌ただしく席を立った。
同レストランでは、こじんまりと、しかし客がゆっくり落ち着いてくつろぐことのできる雰囲気づくりを心がけている。
「料亭で出るような専門料理はいらない。日本の一般家庭の食卓に出てくるような料理を出せたらいい。だからうどんや蕎麦も置いてる」。
NHKから流れてくる日本のニュースや「のど自慢」を見ながら、あるいは家族や友人とゆっくり話しながら食べる日本食は、寿司・刺身よりも素朴で懐かしいうどん・蕎麦ではないだろうか。つづく。
(大国美加記者)