10月5日(火)
「おおーっ」と、バスの中から歓声があがる。初めて見えたアマゾン川だ。対岸にはうっすらマラジョー島も見える。
午後三時、今年で二百四十年を迎える要塞フォルタレーザ・サンジョゼ・デ・マカパーに到着。フランス軍に対抗するためにポルトガル政府が建設を開始したのが一七六四年。十八年かかって亀のような五角形の姿になったが、結局、戦闘は行われなかった。
入り口で全体像模型を見て、「北海道の五稜郭そっくりだ」と驚きの声をあげる人も。現地ガイドは「未完成だが、ブラジル最大どころか、南米最大の要塞です」という。
五十三の大砲も放置され、過去の写真展示、地方の独特の民芸品販売所なども併設されている。興味深いことに、ポ語、英語と共に、インディオのワイピー語でも案内表示があった。トゥピー系部族でこの地方に住んでいる。「今では使う人はほとんどいないですけど」とはガイドの弁。
続いて、「Curiau de Dentro」というキロンボの見学。キロンボとは、黒人が奴隷だった時代にファゼンダから逃げ出して、森の奥深くに隠里のように作ったコミュニティのことだ。そのような共同体が百年、百五十年たっても残り、独自の踊り、食生活などを継承している。
ここは保護区になっており開発禁止。広大なバッファロー放牧場が横に広がっているが、二月の雨季には水没して湖になるという。高さ二十メートルはあるかという、立派な円錐形屋根をもつ円形舞台で、「バトゥッキ」という舞踊を子どもたちに披露してもらう。その後、裏のマンジョッカ加工所へ。
「まあ、芳ばしくて美味しいわ」と、巨大なフライパン型の鉄鍋で炒っているマンジョッカ粉に、ご婦人たちは果敢に試食の手を伸ばす。サンパウロ市で売られているものよりカリカリで、粒が大きく、味わいが深い。さすがに主婦たちだけあって、美味しいものには敏感、次々に買っていく。
午後八時から、アマパー日伯協会の会員約百人との夕食懇親会が始まった。ホテル内バンケット場は、日本人顔の二百人で一杯になる。マカパーではめったに見られない光景だ。
先亡者への一分間の黙祷が奉げられた後、ふるさと巡り団長の南雲新潟県人会長から「大勢参加していただき、本当にありがとうございます」と挨拶。次に、アマパーの鈴木会長から同地の移住史が説明された。
現地から、車椅子で参加した立野テルさん(80、鹿児島)の横には、次男の博隆さん(55、同)。立野家族は第三陣としてマザゴン植民地へ五七年に六人で入植した。
「マザゴンには六年間、最後までいました。他の家族は、それ以前にみなサンパウロへ行ったり、死んだりでした」とテルさんはいう。
八歳で来伯した次男の博隆さんは、「小学二年の二学期まで勉強してから、こっちへ来ました」と語る。「一九六四年革命の時は『日本人出て行け!』というブラジル人もいた」と振り返る。「ゴムを植えても土地が悪く、米を植えても鳥が全部食べてしまうような場所だった」という。
テルさんは「日本には行ったことないです。お金なかったですから。子どもたちはみんな行ってしまったけど」。長男はベレンの大学を卒業する直前に、日本へデカセギに。孫も行ったり来たりしているそう。
六四年からマカパーに。野菜の仲買をし、病院、警察などに卸し、大きく商売をしていた時期もあった。八四年には店を構え、「何でも売っていました。いろいろ苦労しましたよ、やり方が分からなくって」と回想する。九九年に夫、義夫さんが亡くなった。享年七十五歳だった。
◎ ◎
懇親会の間、マカパー市の都市開発公社(URBAM)の代表者が現れ、鈴木会長から依頼のあった協会への土地寄贈の仮調印式が行われた。インフラエロⅡ区にある千二百平米だ。「この土地に新会館を建て、会活動を再活性化させたい」と鈴木会長は意気込む。
うさぎ追いし、かの山――。午後九時四十五分、現地日系人との懇親会は盛況のうちに、恒例の「ふるさと」を大合唱して閉会となった。赤道直下、マカパーの夜に響く日本唱歌は格別だ。少々早い解散だが、翌朝の起床時間は、なんと午前二時半! 強行軍が待っている。 つづく
(深沢正雪記者)